源頼朝の系図 (改稿:2022年10月)
1代 経基 2代 満仲 3代 頼信 4代 頼義
5代 義家 6代 義親 7代 為義 8代 義朝 9代 頼朝
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「源頼朝の系図」は、源氏の複雑な構図を、
源頼朝にしぼって、一本化したものです。
「代」を入れて、見やすくしました。
4,5,8,9が重要です。
4代 源 頼義は、東北の前九年・後三年合戦を鎮定。鎌倉に館を構えます。
5代 源 義家は、父とともに、東北の前九年・後三年合戦を鎮定。自腹で参加武士に恩賞をさしだします。八幡太郎義家です。
8代 源 義朝は、頼朝の父です。関東で源氏のつながりを復元。鎌倉に宅地。
9代は、源 頼朝です。
4代 源頼義、5代 源義家、前九年・後三年で活躍
平安時代中期に、奥羽地方で前九年合戦(1051-1062)、後三年合戦(1083-1087)が起こります。4代 源頼義、5代 源義家の父子が鎮定します。
源氏の名が響き渡ります。武士たちは、源氏と主従関係を結びます。
源氏の東国における基礎は、このときに築かれます。
4代 源頼義は、陸奥国の国司(知事)にもなります。また鎌倉に館を構えます。
5代 源 義家(八幡太郎 義家)、東北に勇名をとどろかす
後三年合戦では、坂東武者(関東の武士)が徴兵されます。
勝利しますが、朝廷は内輪もめと判断し、恩賞を出しません。
5代 源義家(八幡太郎義家)は、自腹で坂東武者に恩賞を出します。
武者たちは大喜びで、「源氏には末代までしたがいます」と宣言するものもいます。
5代 源 義家(八幡太郎義家)に荘園を寄進するものもあり、
「天下第一 武勇の士」の評判をとります。
8代 源 義朝、 20代半ばで東国の実力者に
頼朝の父 8代 源義朝は、保元の乱、平治の乱に参戦した武将です。 京に縁が深く、鳥羽上皇にも近づきます。 子の頼朝は、父の8代 源義朝を深く敬慕し、お寺(勝長寿院)を建てています。
その間、源氏の棟梁は6代、7代と質の悪い粗暴な反社会人が続きます。 源氏は落ち目になります。 そんななかで 8代 源義朝は、関東でとだえていた源氏のつながりを地道に築き直します。(【cf.】本郷和人)
鎌倉の館を拠点とし、坂東武者のいざこざを軍事貴族として、仲裁します。
関東の主要武士団を傘下に治めていきます。 20代半ばで東国の実力者となっていきます。 31歳で下野守(しもつけの かみ)となります。 居所を4代 源頼義以来の鎌倉に移します。
9代 源 頼朝、鎌倉に700年間続く武家政権
祖先が東北に大事な種をまいてくれたこと、
また父の8代 源義朝が築き直した関東の人脈が、
鎌倉での大きな成功のもとになっています。
【※】臣籍降下(しんせきこうか)
臣籍降下とは、皇族が、平氏や源氏などの姓を与えられ、臣下の籍に降りることです。
皇室の財政をおさえるためです。
たとえば、第50代 桓武天皇は、100名余りに対して、臣籍降下を行ないます。
子孫は、身一つで現地に下り、現地有力者の娘と結婚し、妻の実家の経済力、政治力をもとに新しい生活をはじめます。
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