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高林謙三#1 製茶機械の発明で近代日本を救おうとした熱血医師 #1 <川越の先人

高林謙三。製茶機械の発明で近代日本を救おうとした熱血医師   #1  <川越の先人

高林謙三は、埼玉県日高市の貧しい農家に生まれました。
16歳で 毛呂山町の権田直助(ごんだ なおすけ)のもとで
国学と医学を3年間学びました。

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【※】権田直助
埼玉県毛呂山(もろやま)は八王子道(みち)が通り、市(いち)も開かれていました。
権田直助は、毛呂山の世襲の医師の家に生まれました。
医者である他に、神道家、勤皇の志士、国学者、歌人でした。
  この時代はロシアやアメリカなどの外国船が日本界隈に出没し、通商を求めています。1825年、直助16歳の時、幕府は「異国船打ち払い令」を出し、撃退を命じています。
権田直助は、29歳のときから神道家の平田篤胤(ひらた あつたね)のもとで3年間医学を学びます。
  のちに大学校で皇朝医道の専任教授になります。
『国文功徳』は、句読点にかんする日本初の書です。他に『古医道沿革考』など多くの著書が。
伊勢原市の大山阿夫利(おおやまあふり)神社に銅像が建っています。「大山近代の祖」と言われています。
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さらに、佐藤尚中(順天堂大学第2代)門下で
外科医術を3年間身につけました。
1859年、28歳で川越市小仙波で開業しました。
第19代川越藩主・松平直克(なおかつ)の侍医にもなりました。


ところで前年の1858年に日本は、長い鎖国の夢からさめ、
アメリカと日米修好通商条約を結びました。

【受験】1858年  日米修好通商条約    ◇ イヤ、コワ(1858)イと、日米修好通商条約
ハリスが下田に

当時日本の輸出品は生糸と緑茶だけで、
国はますます貧しくなる一方でした。

このころはやった狂歌がありました。

    ♪♪~ 泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん) 
    たった四杯で夜も眠れず

これは、
    <上喜撰(狭山銘茶の名)をたつた四杯飲んだだけで夜も眠れなくなった>
オロオロの幕府を庶民が皮肉ったものです。

裏の意味です。
    <蒸気船(←上喜撰)が、4隻きただけで、夜も眠れなくなった>

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上喜撰の狂歌は、
コロナで、「1人1万2000円をあげます。マスクを2枚くばります」
     で、お茶をにごす 内閣を 「とろい しょぼい」 と
ヤユする今の人の気持です。
今は人類文明の危機にあります。
    財政よりもイノチ。オリンピックよりコロナです。
      世界の人心は、延期から返上へと動いています。
【記:2020/04/02】↑★ ★ ★ ★ ★ ★ ★


上の歌に歌われるほど、上喜撰は有名でした。

狭山茶は銘茶の1つで、
「色は静岡、香りは宇治よ、味は狭山でとどめさす」
とうたわれています。

茶葉はその昔、眠気予防、解毒、解熱の薬でした。
贅沢品でもありました。 
 江戸時代には茶の栽培には米の3倍の税金が課されたとも言われています。

川越の中院には、慈覚大師・円仁が茶の種を境内にまいた、という石碑が残っています。

狭山茶は、最澄の弟子円仁(えんにん)が茶の実を薬用として中院で栽培したのが始まりとされています。
やがて茶の栽培は、川越一帯にひろがり川越茶となり、さらに拡大し、狭山茶となりました。

(続く)

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