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後藤新平。関東大震災から東京を復興させる。4月13日没

後藤新平。関東大震災から東京を復興させる。4月13日没

・1857年7月24日。岩手県生まれ。~1929年4月13日没。


後藤新平  【画像】 


後藤新平は、東京市長を務め、東京の大改造計画を練りました。

関東大震災では国の復興院総裁を務めた人物です。
いま、後藤新平からどんなことが学べるのでしょうか。


関東大震災からの復興策 今、後藤新平に学ぶこと  【+8】


【ゆっくり解説】よくわかる後藤新平【国を治療した男】【+13】


以下は、元台湾総統・李登輝氏の「日本人よ、後藤新平の心を取り戻せ」(2018年1月)の抜粋です。


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李登輝

さまざまな課題を抱える今の日本に必要なものは何か

私はそれが「人生の先生」と仰ぐ後藤新平の精神だと考えるのである。

2007年5月、私は家族とともに日本を訪れ「奥の細道」を散策する機会を得た。

ただ、この訪日にはもう一つの目的があった。
この年、藤原書店が創設した「後藤新平賞」の第1回受賞者に光栄にも選ばれ、授賞式に出席することになったのである。

授賞式の席上、私は「後藤新平と私」と題した記念講演を行い、「後藤は私の先生です」と述べた。

9年間で「一世紀にも等しい」発展を果たした台湾

1895年の下関条約で台湾は清朝から日本へ割譲された。

1898年、第4代台湾総督として児玉源太郎総督が
発令を受けると、
児玉は後藤新平をナンバー2の地位にあたる民政長官に起用する。


【※】児玉源太郎
陸軍軍人。日露戦争で満洲軍総参謀長として活躍。


後藤新平はもともと医師出身の内務官僚だったが、

日清戦争後の大量の帰還兵士23万人の検疫を
見事にやり遂げ、その行政手腕が児玉の目に留まったのである。

その後、民政長官として在任した9年あまりの間、
後藤は指導者としての力量を遺憾なく発揮し、
台湾は未開発社会から近代社会へと、
「一世紀にも等しい」と言われるほどの開発と
発展を遂げることになる。


後藤新平は、仕事をしない官吏を更迭し、日本内地へ送り返すとともに、

新渡戸稲造をはじめとする優秀な人材を幅広く台湾へ呼び寄せたのである。

【※】新渡戸稲造

『武士道』をあらわし、国際連盟で世界平和につくす。


続けて公共衛生の改善

台湾北部の基隆と南部の高雄を結ぶ縦貫鉄道の建設、
基隆港の築港を進めた。

そしてこれらのインフラ整備を完成させると、
砂糖、樟脳などに代表される具体的な
産業開発と奨励をしたことで、
台湾の経済発展の軌道を定めたのである。


【※】公衆衛生を重視

後藤はもともと医師であり、公衆衛生を重視した。
当初17万人もいたアヘン吸引者は、50年後の日本敗戦時には皆無となっていた。
上下水道を完備し、主要道路は舗装して、深い側溝を作った。


台湾医学校(現在の台湾大学医学部)を設立して、多くの台湾人医師を育てた。


今日の台湾の繁栄は後藤新平が築いた
基礎の上にあるといえる。

この基礎の上に新しい台湾を築き、
民主化を促進した私は、
後藤とも無縁ではないと思っている。



国家の浮沈は、ひとえに指導者にかかっている

社会や個人の成功が経済や富であると考える風潮が蔓延している今こそ、
指導者は「公」に尽くすことに一生を捧げた
後藤の精神を学ぶべきであろう。(おわり)
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【※】
後藤新平(岩手県)、新渡戸稲造(岩手県)は、東北出身です。
台湾の植民地の苦しみに共感していたのでしょうか。
また、台南市に築いた烏山頭(うさんとう)ダムで有名な八田輿一(はったよいち)も、石川県金沢市で北陸出身です。
東北、北陸出身者は、明治新政府の横暴で苦労しています。


【※】指導者はリスクを取れ
・1891年、濃尾大地震の時、総理大臣、桂太郎は、被災者の救援と人心の安定のために師団を出動、大きな成果をあげました。
・1923年の関東大震災の時、翌日 内務大臣に就任した後藤新平は、その日のうちに復興4カ条の基本方針を書き下ろし、具体化に努めました。
・指導者は、リスクを直視し、減らすように努力をし、最後はリスクを取って、責任を負うことが必要です。



後藤新平記念館

台湾元総統・李登輝の読書歴 桑原政則

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