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川越藩最後の藩主 松平康英(やすひで)。遣欧使節の副使で西欧、ロシアへ (書きかけ)

 川越藩最後の藩主 松平康英(やすひで)。遣欧使節の副使で西欧、ロシアへ

松平 康英

松平康英(やすひで) 1830年7月16日。江戸~1904年7月5日。74歳。東京

2021/11/28 ウエスタ川越で、松平康英(やすひで)に関する初雁温知会50周年記念講演がありました。
講師は宮原一郎(川越市立博物館学芸員)さんです。
100名の参加者。皆様、2時間お疲れさまでした。

初雁温知会
俳優の市村正親も、メンバーです。

川越藩最後の藩主 松平 周防守(すおうのかみ) 康英(やすひで)は、遣欧(けんおう)使節の副使で西欧をめぐり、ロシアで国境画定の交渉をしました。
文久遣欧使節」は、1861年から1年間にわたりました。
※ 
文久遣欧使節行程『欧西行紀』 高島祐啓 1867年
文久遣欧使節行程 
医師・高島祐啓(31歳)

※ 周防守は、受領名(ずりょうめい)
周防守(すおうのかみ)は受領名(ずりょうめい)です。
徳川家康からの「松平」は、多すぎて区別がつきません。
下の名前(「康英」)は、タブーです。
したがって、受領名の周防守(すおうのかみ)が「通り名」となります。


松平康英(やすひで)は、この時33歳、優秀だったようです。

福沢諭吉29歳でした。
劇作家になる福地桜痴は22歳でした。

※フランスでは、ナポレオン3世に謁見しました。
イギリスでは、大英博物館をしました。
オランダでは、オランダ国王に謁見しました。
ドイツでは、プロイセン国王に謁見しました。

偉かったのは、行く先々の香港、パリ、ロンドン、ベルリン、アムステルダムで地図を購入したことです。
ロシアとの国境画定交渉には地図が威力を発揮しました。


松平康英(やすひで)の交渉相手の
アジア総督 イグナチェフ( Ignatiev、 Игнатьев)は、30歳。
ていねいな話し方で、交渉は紳士的でした。

ロシアの交渉は紳士的
ラクスマンは、日本との通商を求めるために、日本の漂流民をともない、1792年に根室に来航し、大黒屋光太夫らの漂流民を日本に送り返しました。
1804年、ラクスマンの入港許可証をもって、
レザノフが長崎に来航しました。
しかし幽囚同様の扱いを受け、通商は失敗しました。

松平康英(やすひで)の交渉は、
時代の急変で沙汰止みとなりました。


松平康英(やすひで)は、1865年には、老中になっています。
※ 老中は、毎月交代の月番制でした。
じきじきの采配をしたのは、家康、秀忠、家光、8代 吉宗、15代 慶喜は、です。

松平康英(やすひで)は、1867年に、棚倉から川越へ移転します。


・・・・・・・・・・・
初代の松平 康親(やすちか)は、
長篠の合戦の功で、万字の鎗(やり)をいただき、
家康の「康」を得て、康親(やすちか)になりました。

1521年~1583年8月4日没

光西寺 


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