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家光の墓はなぜ日光に?

wikipedia
3代将軍家光は、家康を神のようにあがめていました。

その気持を形あるものにしたのが日光東照宮の大造替です。

家康は家光が13歳の時なくなりました。
家光のもっていたお守りが現存しています。

「東照権現、将軍 心も体も一ッ也」
≪家康公と将軍の私は、心も体も一ッ也≫

「いきるもしぬるも なに事も 大ごんげんさま次第」

家光は死後も家康と生活を共にすることを願い、
自分の墓も東照宮につくるように言い残しました。

大猷院(たいゆういん)です。
天海廟の背後にあります。
天海の廟(びょう)所は家康との約束によって日光に決められていました。
大猷院【画像】

家康、家光以外の将軍は、寛永寺か増上寺にまつられています。

家光は、天海を家康と同列視していました。
祖父のような親しみを感じていました。

家光は川越に9回も訪れ、天海僧正を訪れたりしています。

1638年に、川越大火によって喜多院のほとんどが消失しました。
家光は、天海僧正の喜多院の再建を命じ、
江戸城から客殿や書院を移築しました。

・「家光誕生の間」
・「春日局(かすがのつぼね)化粧の間」
がそれです。
これらは、江戸城の唯一の遺構です。

家光は、天海が病気になったとき、1ヶ月の間に4回も上野の寛永寺に見舞っています。

家光が、もっとも敬慕する家康・それに代わる天海が眠る日光に自分も眠りたいと考えたのは当然のことでした。

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徳川家光 ウィキペディア

    東照宮にはなぜ虎の彫刻が多い?


    祖父家康を熱烈崇拝していた家光は、日光東照宮を全面的に建て替えます。
    1636年に完成します。 
      <* 元の社殿は世良田東照宮に移築しました。>

    東照宮には実在する動物の彫刻は120体あります。
    虎が最多で38体です。

    次ぎに多いのが兎で、19体あります。

    霊獣では、龍が最多です。
    家光は辰年です。

    徳川3代の将軍の干支(えと)は、とら、う、たつと続きます。

    「竜虎の戦い」の彫刻はありません。
    虎(=家康)と竜(=家光)が戦う彫刻など、家光には恐れ多すぎることでした。

    家康が38歳の時秀忠が生まれました。

    同様に、家光は自分が38歳のときに、男児が生まれるように、天海に念力祈願をおねがいしました。

    巳年の4代将軍家綱の誕生です。

    (改稿:2011年11月)

    *     *     *

    天海物語 目次

    日光も四神相応(しじんそうおう)の地




    平安京、江戸は、四神相応(しじんそうおう)の地です。
    風水における好適地のことをいいます。

    日光もそうです。
    北に亀山が鎮座し、東に稲荷川が流れ、南はなだらかに開け大谷川(だいやがわ)があり、西には中禅寺道が通じています。

    鬼門軸には、毘沙門天をまつる外山があります。
    日光を開山した勝道上人をまつる開山堂もあります。
    裏鬼門には大黒山があります。

    天海僧正をまつる慈眼堂(じげんどう)もあります。

    日光は風水学から見て最適の地にあります。

    日光霧降高原にて。2014/04/30
    /src ページ末
    *
    http://www10.plala.or.jp/VAIO/aki/nikko_kirifuri.html

    「天皇」とは北極星のこと。左が格上の理由

    北極星は不動の星であり、宇宙を治める神と考えられています。

    北極星を、中国では、天皇大帝(てんおうだいてい)と称しました。
    「天に煌々(こうこう)と輝く大帝」という意味です。

    日本の天皇という称号の起源と考えられています。

    左が格上
    「天子は南面す」といいます。
    北極星を背にするためです。

    平安京で、御所(ごしょ、天皇の居所)が、都の北端にあるのも、北極星を背にするためです。

    御所から見て、
    左の方が格上なのは、太陽が出る方向だからです。

    古い日本を残す沖縄では
        東をアガリ、西をイリ
    といいます。

    川越は、日光からの気のエネルギー中継センター 

    川越は、日光からの気のエネルギー中継センター 


    陽明門の北極星と無数の星  <*


    気は日光、川越から、江戸へ

    日光には、巨大な龍穴(パワースポット)があります。

    龍穴とはツボのようなもので、気のエネルギーの巨大な貯蔵庫であり、気の噴出する場所です。
    また、気の通り道を龍脈と呼びます。

    北極星となった徳川家康が、東照大権現となり、江戸を守るために、日光に気を送り込みます。

    日光からあふれる気を受け止め、増幅し、江戸に受け渡すのが川越です。 

    川越は、武蔵野台地の北の端にあり、荒川という龍と入間川という龍をおさえる場所にあります。
    川越は、2頭の暴れ龍をおさえ、日光からの気のエネルギーをしっかり江戸に送り込む気の中継所です。

    気は日光、川越から江戸へ流れ込みます。

    川越の喜多院当主でもある天海は、北極星である神・家康が、日光、川越を経由して、江戸を守るというしかけをつくりました。





    【cf.】荒俣宏他


    江戸の町はうずまき型

    江戸の水路 
    江戸の堀と川  /src wp

    江戸の町は、うずまき型になっています。
    平安京のような碁盤の目状ではありません。

    うずまき型は、気のエネルギーをさらに活性化する働きがあります。
    日光から龍脈を通って来た気のエネルギーは、うずまき型の江戸で高まります。 

    龍脈は、人間の血管のようなものです。              
    このしかけをほどこしたのが天海僧正と言われています。

    うずまき型都市の実利は、次のようです。
    1. うずまきだと無限成長できます。
    2. 敵から攻められにくく、守りやすいです。
    3. 火事の時には、堀が引火を最小に防いでくれます。
    4. 堀船で物を遠くまで運ぶことができます。
    5. 堀を掘った土で、低地を埋め、海を陸に変えることができます。

    江戸城の裏鬼門に増上寺を配置

    増上寺は裏鬼門に配置

    増上寺は、江戸を守るために日比谷から裏鬼門に移されました。

    増上寺は、徳川家の大事な菩提(ぼだい)寺です。
    菩提とは、死後の冥福(めいふく)のことで、菩提寺とは、先祖代々の墓という意味です。

    徳川家は浄土宗で、増上寺は江戸の中で最も古い浄土宗の寺です。

    川越・蓮馨寺(れんけいじ)出身の増上寺の法主(ほっす)・存応(ぞんのう)が、徳川家康と親交を深め、増上寺を徳川家の菩提寺にしました。

    1616年死期の迫ったことを悟った家康は、天海ら3人を枕元に呼んで指示しました。

    「わたしの遺体は駿河の久能山(くのうざん)にほおむり、葬儀は増上寺でおこない、…、1周期が過ぎてから日光に小堂を建ててまつりなさい」

    1616年、家康が没すると、存応は増上寺で葬儀の導師を務めました。

    ※1617年、天海は導師となり、徳川家康の遺骸を久能山から日光へ移送します。途中、一行1300人は川越の喜多院で4日間にわたり法要します。このため川越の仙波東照宮は、日光東照宮、久能山東照宮とならび三大東照宮と称せられます。
    ※天海が存応と論争をしたとの記録が残っています。

    増上寺では、
    6人の将軍がミイラのあぐらの姿勢で裏鬼門を守り続けていました。
    2代秀忠、6代家宣、7家継、9代家重、12代家慶、14代家茂です。

    1960年ごろこれらの墓は改葬されました。

    家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定の6人は寛永寺で、表鬼門を守っています。
    家康と家光は、特別で、日光です。


    増上寺

    川越の喜多院をあるけば日本の宗教がわかる。日本の宗教は神・仏教(かみほとけきょう) <川越

    川越の喜多院をあるけば日本の宗教がわかる。日本の宗教は神・仏教(かみほとけきょう) <川越

    天海僧正お手植えの槙(まき)


    天海僧正お手植えの槇(まき)の立て札
    天台宗では、神仏習合といい、神様と仏様を
    同じく礼拝します。」

    天台宗では、神仏習合で、神様と仏様を同じく礼拝します、とあります。
    自分だけが尊いとする一神教とは、ちがいます。

    最澄の天台宗は神・仏教(かみほとけきょう)です。
    最澄は、比叡山でも僧侶を生み出せるように朝廷に働きかけました。
    最澄の夢がかない、最澄の比叡山延暦寺は、
    自前で正式な僧侶を輩出できるようになりました。

    比叡山からは、すぐれた宗教家が生み出されました。

          法然の浄土宗 (1133- 1212、80歳)
          親鸞の浄土真宗 (1173- 1262、90歳)
          栄西の臨済宗 (えいさい、ようさい)(1141- 1215、75歳)
          道元の曹洞宗 (1200- 1253、54歳)
          日蓮の日蓮宗(1222- 1282、61歳)

    徳川家康のアドバイザーは、天台宗の天海です。
    天海が創建した上野の寛永寺は、東叡山(東の比叡山)とよばれます。
    天海は、川越 喜多院の住職です。


    日本の宗教は、似たり寄ったりで、
    神仏習合(しんぶつ しゅうごう)です。


    カミとホトケは同居です。

    仏教以外の密教の神や民間信仰をも、
    まぜこぜ(シンクレティズムSyncretism)です。





     山川草木  悉皆有魂
    (さんせんそうぼく  しっかいゆうこん)」で、

    動植物や自然にも魂があると考えます。


    敷石供養塔。川越・中院

    敷石を天台宗などでは、供養します。

    踏みつけられて人の役に立つ敷石を、魂あるものとして供養します。
    敷石供養塔(しきいし くようとう)です。
    石にも、日本では、魂がある、と考えます。


    本殿に「おびんづるさま」
    「おびんづるさま」は「なでぼとけ」ともよばれます。
    釈迦の弟子です。自分の体の悪いところと
    「おびんづるさま」同じ場所をなでると、よくなります。

    喜多院の本殿
    慈恵大師(じえだいし)をおまつりしているので慈恵堂とよばれます。



    本殿横に「大黒天」
    本殿前横に「苦ぬき地蔵」
    聖徳太子をまつる「太子堂」も

    白山神社。830年喜多院創建の時、喜多院を加護するようにと。

    喜多院の境内に仙波東照宮

    喜多院前に日枝神社
    日枝神社は、かつては喜多院境内にありました。

    龍池弁財天(たついけべんざいてん) 【地図】

    川越・喜多院には、七福神の大黒様がまつってあります。
    大黒さまは、出雲大社の大国主命(おおくにぬし)と同一視されるようにもなりました。
    「大黒」→「大国」で字が似ているからです。

    苦ぬき地蔵もあります。

    太子堂もあります。
    聖徳太子は仏教を保護したため、宗派を越えて信仰の対象となっています。

    多宝塔、白山神社もあります。

    同じ敷地に東照宮があります。

    日枝神社は喜多院の前です。

    弁天様もあります。

    天台宗は、密教の影響も強く受けています。
    密教には多くの神々がいます。
    そしてその神々の上に唯一の神がいます。

    ゾロアスター教(拝火教)の影響もあるようです。

    天海僧正は、徳川家康を
    「東昭大権現(とうしょう だいごんげん)」
    という神様にし、
    260年にわたり徳川家の安泰をはかり、
    日本に平和をもたらしました。

    希有なことです。




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    【追】神仏分離令=仏教弾圧

    1868年、明治元年に神仏分離令が出され、
     廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)がおこなわれました。
    仏を廃し、やめて、また釈迦の教えを毀(こわ)すような政令です。

    しかし、
    現代の世界は、一元主義(これだけが正しいという主張)では
    行き詰まりを迎えています。
    西欧社会とイスラム社会の衝突の解決には、多元主義が必要です。



    東南アジアでは、古くから多数の民族、文化が比較的なかよく共存し、
    国際的です。

    人々は、イスラム教、仏教、儒教、アニミズム、キリスト教などを信仰しています。

    2015年には、11カ国でアセアン共同体をつくりました。
    世界の開かれた成長センターになろうとしています。
    東南アジアのやわらかな、ものをつつみこむ価値観は、今後の世界の問題を解く鍵でしょう。

            アセアンは、急成長中で、西ヨーロッパより人口が多いです。
    インドネシアだけで いずれ人口2億になります。
    ベトナム、フィリピンなどは1億です。
    タイは7000万です。

    1神教の西欧や中東は見習ってほしいものです。

    東南アジアの多神教の喧伝(けんでん)を。日本も多神教







    なぜ、上野に桜?

    上野の花見。2003年4月6日 
    不忍池の弁財天 
    上野は花見シーズンには人でいっぱいです。

    徳川3代の相談役・天海僧正は上野に桜を植える必要がありました。

    それは、朝廷政治に対し、武家政治を確立し、江戸を守るためです。
    天海僧正は、他にも、京に対抗するためのいろいろなしかけをつくりました。


    京の鬼門を封じているのは、比叡山の延暦寺です。 
    天海僧正は川越の東叡山を江戸の鬼門帯にある上野に移し、東叡山寛永寺を開きます。

    比叡山は琵琶湖を従えており、竹生島(ちくぶじま)には弁財天がまつってあります。 
    天海僧正は、不忍池(しのばずのいけ)を、強引に、琵琶湖に見立て、弁天島をつくり弁財天をおきました。




    比叡山と東叡山

    江戸
    比叡山
    → 
    東叡山
    延暦寺
    → 
    寛永寺
    琵琶湖
    → 
    不忍池
    竹生島の弁財天
    → 
    不忍池の弁財天
    吉野の桜
    → 
    上野の桜
    御所
    → 
    輪王寺
    鴨川
    → 
    隅田川


    Ryodaishi 04.JPG
    上野公園の輪王寺。http://goo.gl/thDHY
    京には御所があります。 
    天海は、御所代わりのものを必要としました。
    輪王寺(りんのうじ)です。
    初代の当主は、天皇の皇子でした。

    天皇の聖地といえば「花の吉野」(奈良県)です。 
    天海は、江戸にも「花の聖地」を必要としました。
    こうして「花の上野」が誕生しました。
    誕生秘話です。

    江戸の台地と歴史


    5台地を従えた江戸城、近くまで海が
    • 1590年、家康は、北条氏を滅亡に追いやります。
      秀吉の命により、東海5カ国(三河、遠江、駿河、甲斐、信濃)から関八州に国替えとなります。
      関八州は、相模、武蔵、安房、上総(かずさ)、下総(しもうさ)、常陸、上野(こうずけ)、下野(しもつけ)のことです。
      関八州【地図】
    • 家康は、江戸の中核となる江戸城を
          上野台地、本郷台地、麹町台地、麻布台地、品川台地
      に囲まれる土地に築きました。
    • このころの江戸は、川越よりはるかにさびれた漁村でしたので、だれもが驚嘆しました。
      いまの大手町は芝崎村という岬ですぐ近くが海でした。 
    • ---------- 【江戸の歴史】
    • 秩父出身の江戸太郎は、源頼朝に重用され、その勢力は、いまの千代田区、台東区、文京区、港区、新宿区まで及んでいました。
      ここに江戸太郎は江戸城のもとになる江戸館を建てました。
    • 太田道灌(1432―1486)は、1457年に川越城を築いたあと、江戸館跡に、江戸城を築きました。

    江戸は四神相応(しじんそうおう)の地形 

    江戸は四神相応(しじんそうおう)の地形 
    四神相応の地形四神【画像】
    四神相応(しじんそうおう)の地形
    四神相応とは、陰陽学(おんみょうがく)で、土地が栄え、人間がしあわせにくらす条件を備えた地形のことです。 

    陰陽学は、いまの天文学、地理学、哲学をあわせたような学問です。
    風水(環境学)もこの一部です。

    陰陽道(おんみょうどう)をきわめていた天海は、のちに「江戸の陰陽師(おんみょうじ)」とよばれます。

    江戸は、
        北の玄武に丘陵があり、
       東の青龍に川が流れており、
       南の朱雀が平野や水のたまり場で、
       西の白虎には東海道などの大道があり、
    理想的な四神相応(しじんそうおう)の地です。

    しかし、江戸が居城に決まったとき、世間は驚愕しました。
    草深い何もないへき地だったからです。

    天海僧正 年表

    喜多院の天海像
    * 年齢は数え年表示です。
    *印は、要チェック、要出典
    和暦西暦換算表
    :* <*  原本は秀丸に格納>

    *     *     *
    1536年、天文5年 (所伝)
    福島県大沼郡会津美里町の高田で誕生。
    長男。幼名は、兵太郎。
    父は舩木。母は蘆名氏の娘。

    1546年 11歳
    実家の近所の龍興寺(りゅうこうじ)で出家、「隋風」と称します。3年間修行。
    龍興寺は天台宗の円仁(えんにん)創建の古刹(こさつ、古い寺)。
    円仁は、最澄の弟子で、最後の遣唐使。天台宗を完成させた世界的な偉人。

    天台宗は仏教の力で国を導くという国家鎮護を信仰の核にしています。

    1549年 14歳
    宇都宮市の粉河寺(こかわでら、現・宝蔵寺、ほうぞうじ)の住職に弟子入り。
    住職の皇舜は高僧。

    1553年 18歳
    天台宗の総本山、比叡山に入山、実全に師事、天台教学を学びます。
    比叡山は、最澄が山を開いてから、円仁、円珍、良源、源信、良忍、法然、親鸞、一遍、栄西、道元、日蓮など各宗教の祖を生んだので、日本仏教の母とよばれています。またさまざまな芸能を生んだので、「山」といえば比叡山をさしました。

    1556年
    比叡山を下山。
    大津の三井寺(みいでら、現・園城寺おんじょうじ)のに学びます。
    奈良、興福寺などで学びます。林和成重に日本書紀を学びます。法相(ほっそう)、三輪を学びます。

    1558年 23歳
    実母病気のため、時会津へ帰省します。母は逝去。

    1560年
    栃木の足利学校に入り、4年間にわたり、儒学、漢学、易学、国学、経済学、天文学、医学、兵学を習得します。
    天海は、粉河寺、三井寺、興福寺、足利学校と学業を続けます。

    1564年
    群馬県太田市世良田の善昌寺に学びます。

    1571年 35歳
    比叡山入山を試みますが、比叡山が織田信長により焼き打ちされ果たせませんでした。
    天海は、 明智光秀の世話で、山門の学僧、衆徒と共に、武田信玄の元に身を寄せます。
    武田信玄に請われ、山門の学僧と論議をしたり、天台宗について講義したりします。

    1573年 
    会津に戻り数年間(@@@)滞在。

    1577年 42歳
    蘆名氏の要請を受けて、群馬県太田市世良田の善昌寺(現・長楽寺)で5年間修行。天海は塔頭の住職に。

    会津若松の黒川稲荷堂の別当(長官)をつとめます。(@年号、@年間)
    このように若いときから、天海は流浪の学問僧でした。

    1589年
    蘆名氏が伊達政宗に攻められます。天海は蘆名盛重とともに白川に逃れます。1590年(?)蘆名盛重が常陸の江戸崎に移るのに従い、江戸崎不動尊院を再興し、住職も兼ねます。

    1590年 55歳
    関東有数の大寺院、川越の無量寿寺の北院(のちの喜多院)に移り、名を天海と改めます。
    無量寿寺は円仁(えんにん)が創建しました。
    天海が11歳で入った会津の龍興寺も円仁が創建したものでした。
    無量寿寺は天台宗の関東総本山で580の寺を従えていました。
    しかし、このころは北院も中院も荒れ果てており、南院は墓地を残すのみでした。
    この年天海は、初めて江戸入りを果たした家康に多くの僧とともによばれました。(諸説あり)。
     <*このとき天海は不老長寿の秘薬として、川越の納豆を献上しました。家康は、この納豆をいたく気に入りました。や がてこの納豆は芝崎納豆とよばれ、江戸の名物になりました。いまも芝崎納豆は、神田神社の参道のみやげ店で販売しています。>
    天海はいよいよ喜多院を根拠地に関東に根をおろします。

    1599年 64歳
    北院の住職・豪海没し、天海は無量寿寺北院の第27世住職に。
    北院は、のちに喜多院になります。
    天海の飛躍がはじまります。

    1603年 68歳
    天海、家康に登用されます。江戸幕府開幕の年です。

    天海は神田神社に平将門(たいらのまさかど)の霊を大手町(旧称は芝崎)から今の地に分祀(ぶんし)し、江戸の町の守護神にしました。
    家康が江戸幕府を開いた年です。
    将門は朝廷に反抗した朝廷の敵でした。
    天海は、民衆に人気のあった朝敵の将門を江戸の街を守る神様にすることにより、江戸の民が尊皇思想をもたないようにしくみました。

    1607年  72歳
    この年から5年間、家康の依頼で比叡山探題奉行となり、内輪もめの激しかった延暦寺の再興に着手します。
    探題(たんだい)とは、宗教の最高の権威者のことです。
    延暦寺の南光坊に住したことから、南光坊天海とよばれました。

    <* 偶然ながら、喜多院第57世の塩入亮忠(りょうちゅう、1889-1971、大正大学学長)も南光坊住職をつとめた。>

    家康は、喜多院を東の比叡山と言う意味で、東叡山という山号にしました。(@年号)

    1608年
    駿府城で家康に「山王一実神道(さんのういちじつしんとう)」を講義。
    この後もしばしば家康に招かれ講義します。
    山王一実神道とは@@@

    <* 家康(1542-1616)の将軍としての在職期間は1603年から1605年までです。
    その後は大御所として駿河に移転しました。
    駿河は、京都と江戸の中間にあり、両方ににらみをきかせることが出来ました。>

    1609年 74歳
    後陽成天皇に天台宗について説きます。
    天海は天台宗の権僧正(ごんのそうじょう)に。
    権僧正は、僧正に次ぐ地位です。

    1610年
    天台宗の広学堅義(りゅうぎ)探題に選ばれます。
     <*  広学堅義探題とは@@@>

    1611年
    僧正に任じられ、後陽成天皇から毘沙門堂門室の号を賜ります。
     <* 毘沙門堂の重要さ@@@ >

    家康は川越で放鷹(ほうよう)し、天海に面会し、寺領を寄贈します。
    天海は、家康の指示で、川越の無量寿寺北院を喜多院と改め、喜多院を関東天台宗の総本山に定め、山号を東叡山に変更します。
    家康は、関東天台宗の全権を喜多院に与えることにより、朝廷側の比叡山の勢力を関東に移すことにします。

    1612年 77歳
    家康は、川越の無量寿寺北院を喜多院と改め、寺領300石を寄進し、喜多院を関東天台宗の総本山に定め、山号を東叡山に変更します。
    家康は、関東天台宗の全権を喜多院に与えることにより、朝廷側の比叡山の勢力を関東に移すことに成功します。
    家康、喜多院に天海を訪問します。

    1613年 78歳 家康は72歳  
    天海、家康を駿府城に訪問し、天台論議法要をおこないます。
    家康は喜多院に参詣し、天海の天台論議法要を聴聞します。

    天海は、日光山の貫首(かんじゅ)も兼任し、日光山の復興にとりかかります。
    貫首とは、天台宗の大寺の住職のことです。

    喜多院で、家康と天海が仏法を談じます。
    家康は、喜多院に寺領500石を寄進します。

    1614年 79歳 家康は73歳
    3月  天海、上洛します。
    4月  御所で『延喜式』の書写を請います。
    5月  天海、家康に天台血脈を授けます。
     <*  天台血脈とは@@@>
    6月  9日、13日、17日、22日、25日、18日、天海は、駿府城で家康に天台論議法要をおこないます。
    7月  3日、18日、21日、27日、駿府城で家康に天台論議法要をおこないます。
    9月  9日、11日、15日、18日、21日、27日、駿府城で家康に天台論議法要などをおこないます。
    11月  家康の大阪出陣に従って上洛し、家康のために御所の貴重書を借用します。また、天皇、上皇、家康間の講和につとめます。

    1615年
    1月 後陽成天皇より御衣、燕尾帽、鳩杖を賜る
     <* 鳩杖は、80歳を祝うときに贈られる。 >
    6月 二条城で天台論議法要をおこない、家康が聴聞します。
    10月 江戸城で天台論議法要をおこないます。

    1616年 81歳  家康75歳
    2月 家康の病気見舞いのため、駿府に急行します。
    4月 藤堂高虎に受戒します。 <*  要説明>
    4月2日 家康、駿府にて、本田正純、金地院崇伝(こんちいんすうでん)、天海の3人に遺言します。

    家康は、自分の死に及び、病床に3人をよび遺言を残しました。
    天海もその1人でした。
    それほどまでに天海は頼りにされていました。
    天海は、家康の神名を東照大権現(とうしょうだいごんげん)とつけました。
    伊勢神宮の天照大神(あまてらすおおみかみ)を意識し、東国の天照(あまてらす)という意味で東照大権現にしたのでしょう。
    東照大権現とは、家康が東照という神となって仮に(=権)あらわれている姿ということです。

    家康をまつる東照宮は全国に100以上あります。
    このうち、久能山東照宮、日光東照宮、および仙波東照宮を3大東照宮とよびます。
    川越の仙波東照宮は、1617年、家康の亡きがらを久能山から日光へ運ぶ途中、わざわざ喜多院へ寄り法要が営まれたことにより建立されました。

    4月17日 家康が死去します。
    天海は葬儀の導師となり、静岡の久能山に埋葬します。
    <* このとき家光は13歳。家光は生涯で9回川越を訪問しています。 >
    6月 上洛し、家康の神号を奉請します。
    7月 大僧正に任じられます。
    9月 江戸にて家康の神号勅許を復命します。
    10月 日光山にのぼり、東照社造営の縄張りをはじめます。

    1617年 82歳
    2月 家康に神号が朝廷から贈られます。神号は天海の主張通り「東昭大権現」でした。
     <*  天海と崇伝の論争 @@@>
    天海は導師となり、家康の遺骸を久能山から日光へ移送。
    3月15日
    駿府の久能山にのぼり、徳川家康の霊柩をみずから掘り起こし、自分が住職をしている川越の喜多院で実に4日間もの大法要を営み、日光におさめました。
    ご神霊の行列は1300人にも及びました。
    葬儀の導師をつとめた天海はこのとき81歳でした。
    今に続く日光の「千人武者行列」は、久能山から日光へのこのときの行列を模したものです。

    天海は、伊勢神宮の天照大神(あまてらすおおみかみ)に対して、家康を「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」としました。
    東の天照(あまてらす)という意味です。権現とは「仮の姿」ということで、ほんとは仏様だが、いまは仮に「東の天照大神だ」ということです。
    家康をまつる東照宮は、全国に130ほどあります。
     <*  東照宮の「宮」とは@@@ >。
    川越の仙波東照宮が、日光東照宮、久能山東照宮とともに三大東照宮とよばれているのは遺骸のコースが、久能山→川越→日光だったからです。川越は日光からの気のエネルギーの中継所でもありました。

    3月23日
    川越の喜多院に到着。天海、4日間にわたり法要します。
    以降、一行1300人は、川越から忍(おし)、館林、佐野、鹿沼、日光へ向かいます。

    4月16日
    家康の神像を正殿に安置します。
    儀式は天海の「山王一実神道(さんのういちじつしんとう)」でおこないました。
    <* 山王一実神道は、すべての神の教えは、日吉(ひえ)山王の教えに帰するという教えです。
    つまり、すべての神々はみな山王の分身であるということです。
    天海は山王権現を東照大権現に置き換えました。
    山王一実神道の宗教上の目的は「現世安穏、後生善処」、つまり徳川幕藩体制と徳川家を支える支柱の確立でした。
    徳川幕府の日本支配と国家安泰をめざしていました。
    江戸期を通じ家康は神君とよばれました。
    神(東照大権現)と君主が一体であることを意味します。
    「神=君」という思想があったからこそ、戊辰戦争でも官軍は、寛永寺は焼いても、どの東照宮も攻撃しませんでした。 >

    4月17日
    ご祭礼をおこないます。

    4月19日
    法華曼荼羅供@@@

    家康公霊柩行列の追跡と東照宮

    1618年
    4月 江戸城内に東照廟を勧請(かんじょう)し、導師をつとめます。

    1619年
    5月 上洛し、桓武天皇の廟塔を修造します。
    8月 伏見城にて、天台論議法要をおこないます。
    9月 尾張に東照権現を勧請します。

    1620年
    2月 花山院忠長の息子(のちの公海)を養子にします。
    8月 水戸東照宮の縄張りをおこないます。

    1621年
    4月 水戸に東照権現を勧請し、導師をつとめます。
    10月 紀伊に東照権現を勧請し、導師をつとめます。

    1622年
    4月 東照権現7回忌法要を日光山でおこないます。

    1623年
    7月 上洛します。

    12月 上野に寛永寺の造営を始めます。

    12月 最胤(さいいん?)法親王に書状にて、東叡山に皇子を迎えたいという希望を述べる。
    @@@2代将軍秀忠(1578-1632、在職1605-1623)死去。
    家光(1604-1651。在職1623-1651)が後を継ぐ。
    <* 天海は、秀忠、家光の政治顧問格でした。 >

    1625年 90歳
    天海は江戸城の鬼門封じのために上野に寛永寺を建て、将軍家の菩提寺にしました。
    山号を喜多院から移し東叡山とし、関東天台宗総本山にします。
    喜多院の山号は以前の星野山にもどしました。

    比叡山延暦寺は「延暦時代」に建てられました。
    それに対抗して、「寛永時代」に建てたので寛永寺にしました。
    また東叡山(とうえいざん)という喜多院の山号を寛永寺に譲りました。
    東叡山は、関東天台宗の総本山です。
    東叡山とは、東(関東)の比叡山という意味です。

    今の上野公園も含む広大な敷地を保有していました。
    朝廷側の比叡山は全国を支配していましたが、関東の580ほどの寺社は東叡山寛永寺が治めるようになりました。

    京都御所を仏教面では比叡山が守り、比叡山を神道面で日吉神社が守っています。
    江戸では、寛永寺、神田神社が鬼門を封じ、増上寺、日枝神社が裏鬼門を封じるようにしました。
     <*  図解>

    天海はまた「家康=北極星」のしかけを施しました。
    日光東照宮は江戸城の真北に位置します。
    江戸の街からは日光の男体山(なんたいさん)が見え、男体山の真上に北極星が輝きます。
    北極星は宇宙を支配する神で、無数の星が北極星をめぐります。
    家康は、神となり、江戸を守ることになります。
    「北極星=家康」のしかけをつくったのが天海です。

    徳川家では、家康だけが神で、あとの将軍は仏です。
    家康が「神君」とよばれるのは、神であり、君主であるからです。
    天海は、家康を「東昭大権現(とうしょうだいごんげん)」という神様にし、250年以上にわたり徳川家の安泰をはかり、日本に平和をもたらしました。世界史上希有なことです。

    2月24日 川越・三芳野神社の遷宮の導師をつとめます。

    7月 徳川家光が日光山を参詣します。法会(ほうえ)をとりおこないます。

    1626年
    上洛し、宮中で論議法要をつとめます。

    8月 公海に京都・毘沙門堂門室をゆずります。

    1627年
    9月 上野に東照権現を勧請、導師をつとめます。

    1628年
    南禅寺金地院(こんちいん)に東照宮を建立します。

    4月  日光山で東照大権現13回忌の導師をつとめます。

    1632年  97歳
    4月 日光山で東照大権現17回忌の導師をつとめます。
    徳川家光も日光登山をおこないます。

    7月 沢庵の赦免を乞い、許されます。

    1633年
    8月  二の丸東照宮完成し、遷宮を執務します。

    1634年
    6月  上洛します。

    閏7月 比叡山坂本東照宮の正遷宮をすすめます。

    10月  比叡山諸堂の復旧に着手します。

    1635年
    徳川家光より東照権現縁起の撰述の委嘱を受けます。

    5月 日光山にのぼり東照大権現仮殿遷宮の儀をつとめます。

    6月 江戸城・紅葉山東照宮の祭祀をつとめます。

    1636年 101歳
    4月 東照社の大造替完成。東照大権現21回忌の導師をつとめます。
    『東照権現縁起(真名本)』上巻が完成します。

    1637年  102歳
    寛永寺において『天海版 一切経』を活版印刷する大事業を計画します。
    一切経とは、仏教経典の全集で、大蔵経(だいぞうきょう)ともよばれます。
    12年後に完成します。全6323巻です。

    1638年 103歳
    川越大火で、喜多院が全焼します。

    天海を崇敬していた家光は、ただちに喜多院の再建にとりかかります。
    家光は、江戸城から大切にしていた「家光誕生の間」「春日局(かすがのつぼね)化粧の間」を移築します。
    これらは、江戸城の唯一の遺構です。
    春日局は家光の乳母で、家光を将軍に押し立てた立役者です。

    1640年
    『東照宮権現縁起絵巻(仮名本)』全5巻が完成します。
    『東照権現縁起(真名本)』中巻、下巻が完成します。

    4月 東照大権現25回忌、日光東照社で導師をつとめます。

    1641年
    7月 日光山奥院石造宝塔が完成します。

    1643年10月2日  死去   108歳  
    5月 日光山に相輪橖(そうりんとう)を造立します。

    9月28日 五か条からなる遺言を述べます。


     五か条の遺言
    1 東照大権現の神威を増すこと。
    2 天台宗を繁栄させること。
    3 天海の後継者には、親王をむかえること。
    4 京都山科の毘沙門堂の門室を再興すること。
    5 天皇の命に違反する罪で配流された人々の赦免をおこなうこと。


    10月2日 天海、寛永寺で死去します。
    数えでは108歳です。
    徳川家康と同じく日光に埋葬されました。
    日光の天海蔵には、天海の蔵書1万冊が収められています。
    慈眼大師(じげんだいし)の追号が朝廷から贈られました。
    この追号(ついごう)は、天台宗では5人目700年ぶりの出来ごとでした。

    10月17日 天海の柩が江戸・寛永寺から日光山・大黒山の慈眼堂に埋葬されます。
    家光の大猷院(だいゆういん)が、近くにあります。   <*  【画像】>
    公海が天海を後継します。

    1644年
    10月 日光山、東叡山、比叡山・坂本に天海の御影堂(みえいどう)が創建されます。

    1645年
    日光東照社を東照宮にすることが宣下されます。
     <*  これ以降、東照宮といえば、日光の東照宮を指すことになります。
    誤解を避けるときは、日光東照宮と記します。>

    1646年
    3月 日光東照宮の例祭に朝廷から奉幣使(ほうへいし)が派遣されます。
     <*  以降、伊勢神宮とともに例幣使として毎年派遣されるようになります。>

    1648年
    4月 慈眼大師の謚号(しごう、おくり名)が朝廷から贈られます)。

    1654年 後水尾天皇の第3皇子・守澄 法親王(しゅちょう ほっしんのう)が日光山門主となります。東叡山を兼帯します。

    1655年
    守澄法親王が第179代天台座主(ざす)につきます。

    2月 守澄 法親王に「輪王寺宮(りんのうじのみや)」の号が勅賜されます。
    守澄 法親王は、比叡山、東叡山、日光山の三山管領宮(さんざんかんれいのみや)とよばれます。
    毘沙門堂が門跡(もんせき)寺院に昇格します。
     <* 門跡寺院とは、皇族・貴族が住持をつとめる格式高い寺院のことです。) >

    (年齢は1月1日生まれ換算の満年齢です。)

    *     *     *

    増上寺徳川将軍霊廟物語
    喜多院  家光誕生の間
    徳川綱吉と館林市(群馬県館林市)  

    *     *     *
    天海僧正 文献目録


    (改稿:2010年5月、2011年6月、2011年7月、2011年10月、2013年1月)

    (credit for the group ↓)
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    天海物語 目次