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工業地帯を観光クルージング 兵庫県尼崎市

5-2】(神戸新聞社、文・加藤正文、写真・立川洋一郎)引用編集
開催されたナイトクルーズ。工業地帯の風景がムードを醸し出す=兵庫県尼崎市。2012

 工業地帯を縦横に走る運河に船が進む。
工場、タンク、高速道路―。
次々と広がる景色に歓声が上がる。
恒例の「運河クルージング」だ。
 企画・運営の中心は「尼崎南部再生研究室」。
公害で傷んだ地域の再生をと2001年、学生や会社員、大学教授、市職員らで結成。
「街に軸足を置く」をモットーに、「地ソース」や銭湯、「尼イモ」など「知られざる地域資源」を求めてきた。

 「鉄」のまちと言われ、工業が盛んだった兵庫県尼崎市。
戦後は高度経済成長を支える「工都(こうと)」として栄え、多くの企業が集積した。
だが、臨海部を中心とする火力発電や重化学工業に加え、基幹道路の排ガスは深刻な大気汚染を引き起こした。

 それでも「公害、人口減、衰退...。そんなイメージを覆す魅力が尼崎にある」と研究員の綱本武雄さん(36)=尼崎市。
 水上からは、臨海部の変容が見て取れる。
苦境にあるパナソニックのプラズマパネル工場、荷揚げや積み出しのために船が着岸する岸壁、パナマ運河方式の閘門(こうもん)もある。

 陸からの景色とは異なる開放感が、最大の魅力だ。
「この工場で作っているのは―」。
ガイドの説明がものづくりへの興味をかきたてる。
近年、秋のクルーズはNPO法人や企業、行政などが行う「尼崎運河博覧会」に組み込まれ、すっかり定着した。

 尼崎公害訴訟が和解して11年。今も自動車の排ガス汚染は続き、クボタ旧神崎工場周辺のアスベスト(石綿)公害も深刻だ。公害問題の解決の先にあるのは、地域の再生だろう。人が住まい、交流する。足元の資源を掘り起こし、どう生かすか。マイナスをプラスに変える試みは今後も続く。(神戸新聞社、文・加藤正文、写真・立川洋一郎)
 【神戸新聞】
参加新聞社
もうひとおし
逸品を発掘、販売も
 兵庫は産業観光の宝庫。見学できる施設は250カ所以上と、近畿でトップクラス。尼崎市では隠れた逸品を発掘するコンペが行われ、販売する店舗もある。問い合わせは「MiAステーション」電話06(6412)2086=木曜休日。(神戸新聞社・加藤正文)

「農村力」を 多彩な講師と合宿、論議 福井県池田町

5-1】(福井新聞社、文・森瀬明、写真・横山真一)引用編集
 日本農村力デザイン大学」で講師を囲み熱い議論を交わす参加者たち=福井県池田町。2012

「農村力」を 多彩な講師と合宿、論議  福井県池田町

 福井市中心部から約30キロ、福井県池田町はのどかな景観が広がる農山村だ。
ここで、2泊3日の講義を年間5回行う「日本農村力デザイン大学」が開かれている。
農業者、会社員、大学生、自治体職員らが県内外から集い、議論を展開。
今秋で8期目になるユニークな学びの場だ。

 「豊かな自然、先人の知恵が息づく伝承技術、相互扶助の心といった現代社会が見失いつつある貴重な価値の残る池田町こそ、人づくりの舞台になりうるのでは」。
地元住民のそんな問いかけが設立の発端になった。
農村力を「人と社会を治癒する力」と定義。
社会や自分づくりを構想(デザイン)する場として2005年に開学し、NPO法人を設けて運営している。

 学ぶテーマは農と食、ライフスタイル、社会的起業など幅広い。
「地元学」を提唱する民俗研究家の結城登美雄(ゆうき・とみお)さん、哲学者の内山節(うちやま・たかし)さんら多彩な講師を招いてきた。
副学長として企画の中心となるのは、雑誌「宣伝会議」元編集長で今は池田町に住む伊藤洋子(いとう・ようこ)さん(69)。
「聴きっぱなしでなく、議論の時間をしっかり取るのも特徴」と説明する。


 有機農法でブドウを栽培してワイン造りに取り組む永沢徹(ながさわ・とおる)さん(65)=群馬県渋川市=は開学から1回も欠かさず参加。
「講師や仲間の発言、ものの見方が自分の考えを検証、補強して勉強になる。やりたいことを実現するための知恵の宝庫」と熱く語る。

 第8期は10月6日に開講。 徳野貞雄(とくの・さだお) 熊本大教授らを講師に、さまざまな分野で議論が続く。

*
出会いが触媒に
 自己啓発のセミナーではないし、カルチャーセンターとは全く違う。
参加者の学ぶ意識の高さには驚かされる。
「教室」の中にとどまらず、講師や参加者の出会い、交流が触媒となって今後、何かを生み出すのか、次の展開も楽しみだ。

日本農村力デザイン大学

「仙台いちご」復活へ歩み ハウス再建、宮城県山元町

7-3】(河北新報社、文と写真・原口靖志)引用編集

収穫を前に、赤く色づいてきたイチゴの実を手に目を細める菊地健さん。2012

「仙台いちご」復活へ歩み ハウス再建、宮城県山元町

 ビニールハウスの中で赤く色づき始めた果実が輝く。
東日本大震災で632人が犠牲となった宮城県山元町(やまもとまち)。
「やっと、ここまで立ち直ることができた」。
50年近くイチゴの栽培に取り組む菊地健(きくち・たけし)さん(70)は、2シーズンぶりに実った粒を手に取って目を細めた。

 震災の津波で約2600平方メートルのハウスは自宅とともに全壊した。
内陸部にある仮設住宅で暮らしながら、自宅敷地内にハウスを再建した。
妻みき子さん(61)とクリスマスの最需要期に向けて作業を続ける。

 山元町と、隣接する亘理町(わたりちょう)は「仙台いちご」のブランドで知られる東北一の産地だった。
2010年には両町の380戸が約96ヘクタールで生産し、販売額は約33億5000万円に上った。
津波では農地、施設の95%が被害を受ける壊滅的な打撃を受けた。
今シーズンまでに栽培を再開したのは137戸の26・2ヘクタール。
少しずつ、完全復活に向けた歩みを進めている。
 
 来年には、国の復興交付金を活用して整備する「いちご団地」(ハウス面積約35ヘクタール)の大部分が両町内に完成する予定だ。
亘理町の99戸、山元町からは52戸が参加し、大型ハウスに腰の高さで作業ができる「高設ベンチ」を設置し栽培する。
「みやぎ亘理農協」の担当者は「効率よく、粒のそろったイチゴが育ってほしい」と期待を寄せる。

 イチゴ栽培再開に向けては、両町に国内外から大勢のボランティアが駆け付けた。
連日数十人、延べ1万人近くの力を借りたという菊地さんは「懸命に働くボランティアの姿を見て再起を決意した。
1年生の気持ちになってやり直す」と力を込めた。

秋サケ稼働  漁場復旧 岩手県・陸前高田市

7-2】(岩手日報社、文・向川原成美、写真・大和田勝司)引用編集
海から起こした定置網で勢いよく跳ねる秋サケ。漁業者はひた向きに漁に励む。2012

 岩手県主力の秋サケ漁は、東日本大震災を乗り越えて2年目の漁期を迎えている。
津波で甚大な被害を受けた定置網は、1年8カ月余りで7割まで復旧した。
今シーズンは残念ながら不漁で、網の中で躍るサケは少ないが、漁業者は「浜の復興」を信じて前に進む。
 「漁業が寂れてしまったら、地域の復旧も復興も成り立たない」
 陸前高田市の「広田湾漁協」(佐々木戝(ささき・たから)組合長)が運営する定置網の統括役、大謀(だいぼう)を務める菅野源司(かんの・げんじ)さん(63)は話す。
決意を胸に、仲間と三陸の海に繰り出す。

 同漁協の定置網は同市・広田半島沖の仁位達(にいたつ)、椿島、黒崎の3漁場で漁を行ってきた。
津波で網やワイヤなどの漁具、漁船4隻のうち3隻が被災。
惨状に戸惑いながらも、漁業者は港周辺に散乱する網を回収した。
 昨冬までに仁位達と椿島の2漁場を復旧させ、今年11月には黒崎漁場も再開した。2年ぶりにフル稼働となった今季。
「これまでの分を取り返す」。
乗組員25人の意欲は十分であっても、肝心の漁獲が振るわない。

 岩手の秋サケ漁は、各地のふ化場で稚魚を放流し資源を維持している。
ただ、漁獲量は1996年度の約7万トンをピークに減少。
特に近年は不漁が続く。
今季の漁獲量は震災前4年間の平均の半分以下だ。
漁獲不振は「回帰資源の減少」が要因とみられている。
 晩秋から12月ごろにかけてが秋サケ漁の最盛期。
銀りんの水揚げに各地の浜は活気づき、水産加工所も繁忙期を迎える。
漁の「再建」が水産復興の鍵を握っている。
 「全国からの応援でここまで復旧することができた。
不漁でもあきらめない」と菅野さん。
今日も荒波に立ち向かう。

イチゴ煮、地元食材で健在 青森県・階上町(はしかみちょう)

7-1】(デーリー東北新聞社、文・川守田将和、写真・大粒来仁)引用編集
 「初めて食べたお客さんに『こんなにおいしいものがあるんだ』って感激する人もいるの」と話す階上町(はしかみちょう)の平戸タイさん。

 青森、岩手両県境の太平洋沿岸に伝わる郷土料理「イチゴ煮」。
ウニとアワビをふんだんに使ったうしお汁で、お盆や年末年始、お祝い事などのハレの日には欠かせないごちそうだ。

 「イチゴ煮の里」を掲げる青森県階上町(はしかみちょう)の民宿食堂「はまゆう」では、1977年の創業時から、看板メニューとして地元産の食材を使ったイチゴ煮を提供している。
リピーターも多く、20年来通う客もいるという。
 切り盛りするおかみの平戸(ひらと)タイさん(69)は「震災後、常連さんたちが心配してくれて、店をやってて良かったと思いましたね」と目を細める。

 東日本大震災の津波で、階上町では漁船の約半数が流失し、ウニ、アワビの種苗生産施設を含む漁業関連施設の多くが被害に遭った。
イチゴ煮の主役であるウニとアワビも浜に打ち上げられたり、沖合に流されたりした。
 漁港のすぐそばにある店には数メートル手前まで津波が押し寄せた。
幸い、店舗に大きな被害はなく、落ち着きを取り戻した約2週間後に営業を再開したが、三陸沿岸の被害の深刻さから、被災したと思われて客足が途絶えた。
ウニの仕入れ値は例年の倍に跳ね上がり、苦しい経営を強いられた。

 それでも「看板料理は外せないし、この町で店をやっている以上、守っていかなきゃ」と、値段を据え置いたままメニューを提供し続けてきた。
 現在、食堂は冬季休業中だが、民宿には岩手県沿岸部で進む復旧・復興工事の関係者が宿泊し、忙しい日々を送る平戸さん。
「一日も早い復旧に向け、頑張ってほしい」との思いを強める。

*
 「イチゴ煮」はウニを野イチゴに見立てて、名付けられたと伝えられる。
ウニとアワビから染み出たうま味を、塩と酒で整える昔ながらの作り方を守り続ける平戸さんの一杯は、シンプルながらも、磯の風味を最大限に引き出している。

「オム+カツ」に地元の味 越前市民が後押し

11-3】(福井新聞社・岩渕善郎)引用編集
 地産地消の「マイルイ風ボルガライス」をほおばる日本ボルガラー協会の波多野翼会長

「オム+カツ」地元の味 市民後押し、人気に火 オムライスに豚カツをのせ、ケチャップベースのソースをかけて味わう福井県越前市のご当地グルメ「ボルガライス」。

つい最近まで市民の間でも認知度は低かった。
ボルガライスを応援することで地域を盛り上げようと、市民グループが「日本ボルガラー協会」を発足させたことで、にわかに人気に火がついた。

  ボルガライスは30年以上前から市内の飲食店で出されるようになったが、名前の由来、発祥の店などは謎のままだ。

 現在、洋食店や喫茶店、そば屋など計19店が提供している。
ケチャップがベースのソース、卵の焼き加減などは店ごとのオリジナルで、違った味を楽しめるのも特徴。厚焼き卵とカツを挟んだ「ボルガサンド」など、派生メニューも続々登場している。

 同市家久町(いえひさちょう)の洋食店「マイルイ」は、県外客からの要望もあり「マイルイ風ボルガライス」を始めた。
地元産の鶏卵や豚肉、福井発祥のコシヒカリといった地元食材にこだわり、オリジナルのケチャップごはんをふわふわの卵で巻くなど、洋食店ならではの味を表現している。

 日本ボルガラー協会は2010年3月に発足した。
ボルガライスの提供店舗をホームページで紹介するなどPR活動に余念がない。
目をつけた大手コンビニが今年1月から2週間、全国販売したところ、期間中の弁当売り上げで1位に輝いた。

 自ら「ボルガチョフ」と名乗る同協会会長の波多野翼(はたの・つばさ)さん(28)は「協会はあくまでもきっかけづくりで、市民が盛り上げてくれている。越前市に食べにきて、地元の人とふれあいながら味わってほしい」と話している。

*
 「できることを継続してやろう」(波多野翼(はたの・つばさ)・日本ボルガラー協会会長)という息の長い活動は、単発的なイベントにとどまらず、
市民を巻き込んで広がりを見せている。
派生メニュー、関連商品も開発され、まだ“伸びしろ”も十分ある
今後も目が離せない。

屋台村、地域の夢託す 高崎市「高崎田町屋台通り―中山道恋文横丁」

11-2】(上毛新聞社、文と写真・小沢宜信)引用編集
入り口に取り付けられた大きなのれんが、高崎田町屋台通りの目印。2013

 群馬県高崎市の中心街に屋台村「高崎田町屋台通り―中山道恋文横丁」が2009年12月にオープン、間もなく3年半を迎える。
「まちなか」のにぎわいの復活や地元食材を使った地産地消の促進、起業家支援など、さまざまな思いが詰まった場所。
ワインバーや韓国料理、焼き鳥といった多彩な屋台は、幅広い世代の人気を集めている。

 田町通りに面した約950平方メートルの敷地に、調理場やコの字形カウンター、客席9席を配した約10平方メートルの「屋台」が20軒並ぶ。
当初、営業を始めたのは8軒だったが、現在は15軒に増加。
残る屋台も店主を募集中だ。
周辺の既存店からは「自分の店の客足も増えた」との声が上がり、波及効果も広がる。

 屋台村は、高崎青年会議所のメンバーら有志が「LLP(有限責任事業組合)高崎食文化屋台通り」を結成して運営。
民間から資金を集め、LLPに運営資金を提供するファンド会社も同時に設立した。
力を合わせて、地域経済を後押ししたいとの願いがこもる。

 それだけに、将来の独立を考える起業家支援も、屋台村の重要な役割の一つだ。
オーナーに雇われた店長が店舗経営の"修業"を積み、独立したケースも生まれている。

 地元食材を使った料理を、1品以上提供することも共通ルール。
LLP代表の原寛(はら・ひろし)さん(39)は「ここへ来れば群馬の食材に出合えるというのが、スタート時からのコンセプト」と説明する。

 「地元食材にもっと光を当てたい」と、原さんの夢は広がる。屋台で新鮮野菜を味わったことをきっかけに、産地の山間部に足を運んでもらえば観光にも貢献できる。食材の販売ルート開拓と合わせ、新たな目標を見据えている。

ウミネコ飛び交う八戸市・蕪島(かぶしま) 「三陸復興国立公園」の玄関に

11-1】(デーリー東北新聞社、文・井上周平、写真・松橋広幸)引用編集
 観光客を歓迎するかのようにウミネコが飛び交う蕪島。
三陸復興国立公園の北の玄関口となる。2013

 青森県八戸市にある国の名勝、種差(たねさし)海岸の最北端に位置する蕪島(かぶしま)。
間近でウミネコを観察できる国内唯一の繁殖地で、1922年に国の天然記念物に指定された。
それから90年余。
蕪島は、5月に創設する「三陸復興国立公園」の北の玄関口に生まれ変わる。

面積は約1・8ヘクタール。
かつては陸から150メートル離れた文字通りの島だったが、埋め立て工事で陸続きとなった。
頂上には弁財天をまつる蕪嶋神社が鎮座し、700年以上にわたり地元住民の信仰を集めている。

 ウミネコは毎年2月ごろから飛来し始め、3万~4万羽が子育てをし、8月ごろに旅立つ。
島の上空を大挙して飛び交い、境内を所狭しと闊歩(かっぽ)する光景は圧巻の一言に尽きる。

 「オアーアーアー」。
鋭い眼光に似合わない甲高くてチャーミングな鳴き声が響き始めると、市民は長い冬の終わりを実感する。

 東日本大震災では、蕪島周辺にも大津波が襲来した。
だが、2週間後には市民ボランティア約300人が泥やがれきの片付けを行い、元の美しい景観を取り戻した。

 蕪島は、三陸復興国立公園の主要プロジェクトで、福島県相馬市まで続く長距離歩道「みちのく潮風(しおかぜ)トレイル」の出発点にもなる。
市はこうした動きを観光振興につなげようと、島の周辺に芝生公園や道の駅を整備する計画だ。

 蕪嶋神社の野沢俊雄(のざわ・としお)宮司(62)は「ウミネコが人間と近しいのは、地元住民が長年、信頼関係を築いてきたからこそ。
全国の観光客を迎えるのに最適の地だ」と胸を張る。


三陸復興国立公園
蕪島
八戸市

野間馬(のまうま)をシンボルに 今治市が観光に活用

13-3】(愛媛新聞社、文と写真・野田貴之)引用編集
 日本最小の在来馬、野間馬の乗馬を楽しむ騎馬隊キッズの子どもたち

 一時は絶滅の危機にひんした日本最小の在来馬、野間馬(のまうま)。
愛媛県今治(いまばり)市の「野間馬保存会」(大沢譲児(おおざわ・じょうじ)会長)が、1978年から保存活動に取り組んでいる。

保存会が運営する「野間馬ハイランド」(今治市野間)では現在、54頭が飼育されており、愛らしい姿を見ようと休日は家族連れでにぎわう。

 野間馬は体高120センチ以下で、在来馬8種の中で最も小さい。
江戸時代に松山藩の野間郡(現今治市)で農耕馬として飼われていたが、農業の機械化などで60年前後には市内から姿を消してしまった。

 78年に松山市の馬愛好家が「古里の山野で育ててほしい」と、今治市に4頭を寄贈。
野間地区の有志らが保存会を設立し、畜産農家を中心に繁殖に取り組んだ。
大沢勝幸(おおざわ・かつゆき)副会長(69)は「最初の数年間は雄しか生まれず心配した」と振り返る。

 83年に待望の雌が生まれ、その後は順調に数を増やした。
85年に日本馬事協会から在来馬の認定を受け、88年には今治市の天然記念物に指定された。
上野動物園(東京)などにも譲渡され、今年5月20日現在、全国で計71頭が生息している。 

 野間馬ハイランドは、年間約12万人が訪れる今治市内屈指の観光スポットに成長。
小学校などへの出張乗馬も行っており、情操教育に一役買っている。
大沢副会長は「昔は市民でも野間馬を知る人は少なかった。
保存活動に取り組んできたおかげでみんなに愛される存在になった」と話す。

 地元の乃万(のま)小学校のクラブや、市内外の児童でつくる騎馬隊キッズが厩舎(きゅうしゃ)の掃除などを手伝う。
地域の貴重な観光資源として、野間馬を大切に育てる気持ちは次世代に受け継がれている。

*
 野間馬(のまうま)は胴長短足で、サラブレッドと比べると見劣りがする。
だが、小さな子どもでも触れ合える大きさには親しみが持て、穏やかなまなざしに見つめられると、自然と心も和んでしまう。

「幻の戦車」を探せ 浜名湖で住民と専門家がタッグ

13-2】(静岡新聞社、文・矢嶋宏行、写真・岡田拓也)引用編集
 「四式中戦車チト」の潜水調査。2013

 旧日本軍が終戦直前、当時の最先端の技術を結集して造った「四式中戦車チト」。
完成したのは2両だけで、うち1両が終戦直後、米軍から隠すため、ひそかに静岡県の浜名湖に沈められたとされる。
その「幻の戦車」の探索プロジェクトが、同県浜松市北区三ケ日町で進んでいる。

 歴史的遺産を探し出して町の活性化につなげようと始まった活動に、全国から協力者が集まり、それぞれの持つ技法を駆使して湖底に眠る姿を追い求めている。

 探索を始めたのは地元の町おこし団体「スマッペ」。
事務局長の中村健二(なかむら・けんじ)さん(53)がオンリーワンの地域資源として戦車の存在に目をつけた。

 探索は当初、町の若者らが中心になる予定だったが、活動を知った人や企業が、東京や三重、福岡などから次々と協力を申し出た。

 調査は、これまでに10回ほど実施。
海洋調査会社や測量会社が水中探査し、データを集めた。
潜水調査をするのは、水中工事や遺跡の発掘を得意とするダイバーたちだ。
中村さんは「各分野の専門家が集まってくれた」と話す。
一方、地元の若者は協力者の活動のサポートに回った。
道具の準備や宿の紹介など裏方の仕事をこなす。

 協力は探索だけにとどまらない。
活動の様子をドキュメンタリー番組にまとめて映画祭へ参加する計画や、周辺を観光地として売り出す考えもある。

 「戦車を見つけるのはゴールの一つ。
戦車をきっかけに多くの人が集まったことで、活動の可能性が広がった」と中村さん。
地元住民と協力者が手を携えて、地域資源を発信する取り組みに可能性を見いだしている。

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四式中戦車  wp

真田丸の配役(キャスト)

2016年(平成28年) 大河ドラマ 『真田丸』
 2016年1月10日(日)より(全50回)  作: 三谷幸喜

  • 真田信繁(のぶしげ。通称・幸村) …堺雅人
    「日の本一の兵(つわもの)」とも讃えられた、戦国時代を代表する武将。若き日々を秀吉の人質として過ごし、豊臣家の栄枯盛衰を目の当たりにする。関ヶ原の戦いでは西軍につき、高野山に幽閉。大坂の陣では、真田丸と呼ばれる砦を作り、淀と秀頼を守って奮戦する。
  • 豊臣秀吉 …小日向文世
    信州豪族の真田家の力を高く買い、大名に取り立てる。真田の所領を巡る争いによって北条家を滅ぼし、天下統一を成し遂げる
  • 北政所 …鈴木京香
    秀吉が心から信頼する正室。秀吉本人さえ頭の上がらない豊臣家のゴッドマザーとして、家臣団の深い尊敬を集める。
  • 千利休 …桂文枝 
    多くの大名を弟子に持つ大茶人。秀吉に直言できる数少ない存在だったが、やがて確執が生まれ、切腹を命じられてしまう。
  • 片桐且元 …小林隆
    石田三成や大谷吉継と並ぶ、豊臣政権の中枢を支える官僚。秀吉の死後、対徳川の交渉役となるが、家康の圧力に苦しむことに。
  • 茶々(淀) …竹内結子
    秀吉最愛の側室。待望の嫡男・秀頼を産むことで大きな影響力を持つようになる。秀吉のお気に入りである信繁と深い絆を結ぶ。
  • 石田三成 …山本耕史
    豊臣家に絶対的な忠誠を誓う参謀。秀吉への取次役であり、その存在は真田にとって重い意味を持つ。関ヶ原の戦いで信繁と昌幸を西軍に誘う。
  • 大谷吉継(よしつぐ) …片岡愛之助
    知勇兼ね備えた豊臣家屈指の名将。戦国の大局を見る目を持ち、信繁はそこから多くを学ぶ。愛娘を信繁の正室として嫁がせることに。
  • 豊臣秀次 …新納慎也
    秀吉の甥。関白となり、天下人の後継者の名に恥じないよう励むが、秀頼が誕生し失脚、高野山で切腹させられる。娘が信繁の側室となる。
  • 豊臣秀頼 …中川大志 
    父・秀吉の亡き後、豊臣家が弱体化する中で、淀の溺愛を受けて成長する。徳川との最終決戦、大坂の陣を信繁と共に戦う。

トキの里で安全なコメ、特産に 佐渡島

13-1】(新潟日報社、文・中島陽平、写真・富所真太郎)引用編集
佐渡島の玄関口、両津港の土産物店に並ぶ認証米「朱鷺と暮らす郷」

 日本で唯一、国際保護鳥トキが放され、野生で繁殖している新潟県の佐渡島。
現在、自然界に約70羽が生息する。
トキをシンボルに豊かな自然や安心・安全のイメージも加えた認証米コシヒカリ「朱鷺(とき)と暮らす郷(さと)」は、島の特産に成長している。

 認証米の取り組みはコメのブランド化を目指す佐渡市が中心となり、トキの放鳥が始まった2008年にスタートした。
農薬・化学肥料をそれまでの5割以上減らすことや、冬も田に水を張り生物の生息環境を守ることなどを認証要件とした。

 農家にとっては手間がかかるが、生産者や作付面積は増えている。
佐渡市のまとめでは、08年に256戸、426ヘクタール。
12年は684戸、1367ヘクタールになった。
認証米の小売価格は5キロで3千円前後と、一般の新潟県産コシヒカリより高い。
それでも消費者の人気を集める。
JA佐渡によると、販売量は08年産米の約1100トンから年を追って増え、12年産米は約1650トンとなる見込みだ。
 
 新穂(にいぼ)地区の約80アールで認証米を作る土屋穂積(つちや・ほずみ)さん(68)は「うちの田んぼにはドジョウやカエル、ミズカマキリがいるよ。
農業を通じ、自然が豊かになっていることを感じる」と誇らしげだ。
農作業中にトキがドジョウなどをついばむ姿も見かけるようになった。

 認証米の取り組みが評価され、佐渡市は11年に石川県の能登半島とともに、国連食糧農業機関(FAO)の世界農業遺産に国内で初めて登録された。

 過疎や高齢化など厳しい現実もあるが、佐渡市農林水産課の渡辺竜五(わたなべ・りゅうご)課長(48)は「認証米が消費者に受け入れてもらい、農家の励みになっている」と話す。

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 トキやコメに加え、日本最大級の規模を誇った金銀山に代表される歴史、能をはじめとする芸能・文化など佐渡の魅力は多彩。
食の面では寒ブリなど海の幸や多種多様な果物などもある。

名探偵気分で散策を 横溝正史ゆかりの倉敷市

15-3】(山陽新聞社、文・杉本明信、写真・大橋洋平)引用編集
金田一耕助の姿で、横溝正史ゆかりの場所を巡るファンら。2012

名探偵気分で散策を 横溝正史ゆかりの倉敷市

 羽織はかまにマント、ソフト帽―。
名探偵金田一耕助(きんだいち・こうすけ)に扮(ふん)したファンが各地から集結し、金田一を生んだ推理作家横溝正史(よこみぞ・せいし)(1902~81年)の疎開宅など、ゆかりの岡山県倉敷市真備町(まびちょう)地区を巡る。
毎年秋に行われている仮装イベントだ。
行政と住民が連携し、金田一にちなんだ地域の魅力を発信している。

第2次大戦末期から約3年半、横溝は岡山県に暮らす義姉の勧めで真備町地区へ疎開した。
住民との交流や見聞きした古い因習を基に「獄門島」などを執筆。
その後も「八つ墓村」など同県が舞台の作品を出した。

 倉敷市は、伝統的町並みの美観地区などで知られる観光都市。
だが最近の観光客は年間500万~600万人台で、ピーク時の6割前後にとどまる。
滞在時間の短さも悩みだ。

新たな観光開発として、市は2009年に官民でつくる実行委員会を組織。
「巡(めぐる)・金田一耕助の小径(こみち)」と名付け、特色ある行事を展開している。
仮装イベントでは、金田一の初登場作品「本陣殺人事件」の関連施設も訪ねる。
11年の横溝没後30年、12年の生誕110年には作品の登場人物らの像6体を地区に設けた。

 地元住民も協力。
登場人物の衣装で野外劇を披露するなどして来訪者をもてなしている。
横溝正史疎開宅の管理組合長片岡忠(かたおか・ただし)さん(75)は「イベントなどを通じて訪れる人が増えた」と喜ぶ。

 市観光課の吉田守(よしだ・まもる)課長(53)は「観光客が長く楽しめる倉敷にしたい」。
今年は金田一生誕100年。
さらにイベントを充実させる計画だ。
仮装イベントは11月23日に行う。

深谷市。映画館で街に潤いを。NPO竹石研二

2015/11/8】東京新聞、引用編集
深谷シネマの年代物の映写機を操る竹石研二さん
深谷市深谷町の旧中山道沿いにある映画館「深谷シネマ」。
わずか六十席の映画館だが、年間約百本の作品を上映し、約二万五千人の来場者を集めている。
市民団体が主体となって文化、芸術性の高い作品を中心に上映する「コミュニティシネマ」の草分けとして注目され、全国から視察が相次ぐようになった。

 深谷シネマを運営するNPO法人「市民シアター・エフ」が発足して十五年。
“生みの親”の竹石研二さん(67)は「ようやく市民に親しまれる街の映画館として定着してきた。
これからも市民の暮らしと共にある映画館を目指したい」と語る。

 竹石さんが深谷シネマの構想を温めたのは十七年前。
ちょうど五十歳を迎えた時期に勤め先から転勤を言い渡され、岐路に立たされた。
テーブルにメモ用紙を広げ、自分自身に問うた。
「自分の夢は何か。本当に自分がしたいことは何なのか」

 竹石さんは勤め先を辞め、仲間と共に「市民のための映画館をつくろう」と署名活動を始めた。
市内から映画館が消えて三十数年。
「商店街の一角の小さなスペースでもいい。
映画館を核に、かつての街のにぎわいを取り戻そう」との思いからだった。

 二〇〇〇年にNPO法人の活動を開始。
この年、第一回市民映画会を開いたほか、商店街の店舗を借りた仮設のミニ劇場に一週間で千百五十人の来場者を集めた。
〇二年には銀行の空き店舗を改装して念願の常設映画館「深谷シネマ」(五十席)を開業。
一〇年に旧七ツ梅酒造跡を改装し、移転オープンした。
リーマン・ショック直後は来場者数が三割ダウンし、赤字に転落したが、その後客足は持ち直しつつあるという。

 「映画館ができると人が来て、空洞化しつつある商店街に新たな人の流れが生まれた。
映画館は街の必需品なのだとつくづく感じた」。
深谷シネマの経験を全県に広めようと、各地での上映会や小規模映画館開設の手伝いにも力を入れる。
シネマコンプレックス(シネコン、複合映画館)が主流となるなかで「県内の自治体のうち約三分の二に映画館がない」と憂いつつも「街の小さな映画館とシネコンのすみ分けは十分可能だ」と指摘する。

 また、深谷シネマに足を運べない人のために年間二十回ほど、映写機を運んで各地で出張上映会を開いたり、市の記録映画の制作も手掛けたりと、館外活動も盛んに行っている。

 「映画は自分の体験したことのないわくわくした世界に連れて行ってくれる“窓”だ。
国を超えて人間の多様な生き方も見せてくれる。
その魅力を伝えたい」 (花井勝規)


<たけいし・けんじ> 1948年、東京都墨田区向島生まれ。都立の工業高校を卒業後、工場勤務などを経て75年、横浜放送映画専門学院に入学。卒業後、日活児童映画の企画営業部門で約10年間勤務。2000年、「深谷シネマ」を運営するNPO法人「市民シアター・エフ」の理事長に就任した。NPO法人埼玉映画ネットワーク理事長も務めている。深谷シネマの所在地は深谷市深谷町9の12。火曜休館。問い合わせは同シネマ=電048(551)4592=へ。

本應寺


川越観光案内  第11回  本應寺


NPO武蔵観研 会長  桑  原  政  則


[リード]

蔵造りの町並みを通り、菓子屋横丁をさらに



本應寺の由来

  1547年、松山城(吉見町)は北条氏に奪われ、城主・上田一族は滅亡しました。長沢久右衛門は逃げる際、主君より大事なものを託されました。長沢一族は川越の鴨田、石田、老袋に逃れ、農民として土着しました。25年後に、この秘宝をたずさえ、本應寺を石原の地に創建しました。山号の長久山は、長沢久右衛門から取ったものです。

仁王門

金剛力士?の像を左右に安置してあります。@邪気の入るのを防ぐためです。仁王門があるのは、川越では3キロ先の常楽寺とここ本應寺だけです。

一切経蔵および輪蔵(りんぞう)
仁王門の脇には、一切経蔵(いっさいきょうぞう)があります。一切経蔵内には、

輪蔵と呼ばれる八角形の回転する経蔵に、お釈迦様が説いた経典の全てが保管されています。



かつては、河越城と松山城(比企郡吉見町)は、後北条の北関東前線基地であった。


*本堂* 本応寺第15世は本山の法主(ほっす)に
本応寺の第15世は、日蓮宗総本山・身延山久遠寺の法主(ほっす)になりました。

久遠塔(くおんとう)
永代供養塔のことです。誰もが拝めるように本堂前の目立つところに端座しています。2月15日は、お釈迦様がなくなった供養の日です。翌日の2月16日は日蓮上人がなくなった日にあたります。



高山繁文は芭蕉の門人
高山伝右衛門繁文は、川越城主・秋元喬朝(たかとも)の家臣で、殖産興業で功績を残しました。松尾芭蕉の門人でもありました。

川越城の太鼓:松井松平家


日蓮宗

15世は


”  高沢橋  4寺と組んで  城守り  ”
見立寺(けんりゅうじ)、大蓮寺、本応寺、観音寺の4寺は、
いくさに備えて、
高沢橋を守る砦(とりで)の役を果たしていました。


高沢橋から川越城までは、わずか450メートル。


菓子屋横丁からわずか80メートル。
災害時の避難には、高沢橋方面へ誘導を。【※】観光客はまず知りません。


眼を見張るようなトイレの設置を。

かつては4寺は砦でも。川越城・中の門・堀跡との関連。 川越史。
緊急避難場所  
めがね橋   すべり渕    


寺は砦(とりで)にも
本応寺、観音寺、大蓮寺、見立(けんりゅうじ)は、高沢橋を守り、500m先の川越城 敷地←を  
川越城は、北に



ささら獅子舞
小浜市と姉妹都市 交流がさかんになることを


大道寺政繁
常楽寺に墓。広済寺を建立。蓮馨寺(れんけいじ)を現在地に。見立寺(けんりゅうじ)。大蓮寺







本應寺の概要
山号   長久山(ちょうきゅうざん)。 @@「長」「久」は、長沢久右衛門より。
寺号   本應寺(ほんのうじ)
宗派   日蓮宗 【※】日蓮宗は川越市で5社。
創建   1615年(元和元年、がんながんねん)。
本尊  久遠の釈迦  二仏びょうざ
住所  川越市石原1-4-9  バス:川越駅東口  6番乗り場より石原町。
別院  広谷山・本應寺別院 〒350-0804 川越市下広谷331-13
拝観  自由。無料



【後記】
  本應寺は、励んでいます。
15世は大本山・身延山久遠寺の法主(ほっす)に栄達しました。
星 光喩(ほし こうゆう)現住職は、寺史編纂を企画しました。川越市シルバー人材センターが中心となり、檀家、郷土史家、宗門専門家などの協力で135ページの寺史を完成させました。

また、住職は、ケイタイ説法を8年間続けています。地湧(じゆう)塾を開き、「モーコリタ」(忘己利他)といった冊子を発行しています。 チベットを訪問し、講演会を開いたりしています。

 本稿作成にあたり、本應寺の星・光喩(ほし・こうゆう)住職にお世話になりました。文責は桑原政則、写真は石山貞夫にあります。


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住民と力合わせ寺史編纂
埼玉県川越市・日蓮宗本應寺 星光喩住職

2014年7月30日付 中外日報(キラリ ― 頑張る寺社・宗教者)

日蓮聖人の魂を伝えたいと話す星光喩住職


「小江戸」と呼ばれ、多くの観光客でにぎわう埼玉・川越。
蔵造りの町並みや菓子屋横丁などの観光スポットの近くに日蓮宗本應寺はある。

同寺は1615(元和元)年の開創で、来年400年を迎える。
川越藩の国家老で、松尾芭蕉の門人でもある高山繁文の墓所があり、俳句好きな人たちがよく訪れ、句会の会場にもなる。

15世住職の日奏が身延山久遠寺法主に就任するなど由緒ある寺院だが、1780(安永9)年に火災で多くの資料を焼失した。
かねて寺歴をまとめたいとの希望を持っていた星光喩住職は、立教開宗750年記念として寺史編纂を企画。

川越市シルバー人材センターに編集を依頼した。
高校などで歴史を教えていた教諭や郷土史家などが同センターに登録しており、地元を愛する人たちと一緒に歴史をたどり直そうとの思いからだった。

編集に参加した人たちは、国会図書館や立正大図書館にも通い、また宗門史の専門家に教えを請い、檀家の取材なども精力的に行った。
2003年に『長久山本應寺  今むかし』がまとまり、本應寺が創建された当時の川越の様子から、一切経などの寺宝についても分かりやすく解説されている。

編集を通じて地域の歴史があらためて見直され、この冊子の出来栄えを見て、市内の他の寺院から同センターに寺史編纂の注文が続いたという。

星住職は同寺を会場にチベットの現状を語ってもらう講演会を開いたり、また有志と「地涌塾」を立ち上げ、心も言葉も振る舞いも宗祖に学ぼうと檀信徒に呼び掛けている。

その原点は宗門が主催する布教研修所での御遺文講義だった。
講師は日蓮教学の第一人者、茂田井教亨・立正大教授で、5人の入所者と1年間寝起きを共にした。
「先生は文章に込められた聖人の魂を語られた。
御遺文とはこのように読むものかと衝撃だった」と当時を振り返る。

日蓮聖人は『立正安国論』を執筆し、この世を仏国土に、と為政者に進言した。
その門下として、地域の人たちの心に仏教を届け、より良い社会を目指そうとする試みを続けている。

(有吉英治)


春日局(かすがのつぼね)。3代 家光の乳母で大奥を整える。Kasuga no Tsubone。10月26日没

春日局(かすがのつぼね)。3代 家光の乳母で大奥を整える。Kasuga no Tsubone。10月26日没


・1579年 ~1643年10月26日没。65歳。
 
 徳川家光は、子どものころ、2代将軍・ 秀忠夫妻からきらわれ、弟が将軍のあとつぎに決まりそうになりました。

乳母(うば)の春日局は、大御所 徳川家康に家康にうったえて、家光をあとつぎにしてもらいました。
※  世にいう「春日局の抜け参り」です。春日局は、伊勢参りにでかけるといつわって、駿府に出向き、2代 秀忠夫妻の家光弟への偏愛ぶりを訴えました。家康は、衆目の前では家光を正当な跡継ぎとして遇し、秀忠夫妻の思惑を断ち切りました。 

春日局は家光をかわいがり、家光も、母親のようにあまえました。

老中となる松平信綱、堀田正盛、稲葉正勝は、春日局が育てた小姓(こしょう)でした。

春日局は大奥3000人の制度を整えました。

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春日局の父は、斎藤利三(としみつ)です。
明智光秀の主席家老でした。

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川越の仙波東照宮の石鳥居は、1638年(寛永15年)年のものです。銘が残っています。
国の重要文化財となっています。
堀田正盛が奉納したものです。

【※】堀田正盛の義理の母は春日局です。


堀田正盛は、3代家光の寵童(ちょうどう)で家光が逝去(せいきょ)した時、殉死(じゅんし)しました。
これ以降徳川幕府は、主君のあとを追っての自殺、殉死を禁止しました。



川越の仙波東照宮の灯籠の第1寄進者は、松平信綱です。

春日局は、3代 家光の乳母で大奥を整える 桑原政則

春日局 徳川家康を動かす」 【46+】NHK その時歴史が動いた


【逸話】

春日局は、若い家光が疱瘡(ほうそう)にかかった時に、神仏へ回復祈願をしました。

その際に「薬断ち」を誓いました。

薬だちは一生続きました。

死の間際に、家光が「どうか、薬をのんで、命を延ばしてください」と手紙を書きました。

飲むふりをして、ふところにしまいこんでしまいました。
誓いを破れば、神や仏は上様を守ってくれないかもしれない、と固く考えていたからでしょう。



【名言】

「西に入る  月を誘い  法(のり)をへて  今日ぞ火宅(かたく)を 逃れけるかな」


西へ没していく美しい月を心にとどめ、仏の教えに従って
きょうこそ煩悩の多いこの世からのがれることが出来ました



大坂の陣の後、真田幸村の次男は伊達政宗の庇護下で生き延びた。

仙台真田家13代・真田徹「大坂の陣の後、次男は伊達政宗の庇護下で生き延びた」
   
 大坂の陣で徳川家康を追い詰め、“日本一の兵”と称される戦国武将・真田幸村。来年、NHK大河ドラマ「真田丸」が始まるのを前に、ゆかりの地に大勢の人が詰めかけるフィーバーぶりだ。幸村の末裔である仙台真田家13代・真田徹さん(67)が秘話を披露した。

*  *  *
 真田幸村は、関ケ原の戦いで東軍についた兄・信之と別れて西軍につき、敗れたのちは、父・昌幸とともに高野山の九度山に逃れました。

 昌幸の死後、幸村は大坂冬の陣、夏の陣を戦いましたが、1615年、夏の陣で討ち死にしました。幸村には子供が13人(男子4人、女子9人)いましたが、長男の大助はこのときに自害。
当時、まだ4歳だった次男の大八と4人の娘が奥州に逃れました。
そこで大八が仙台真田氏を興し、私はその13代で、幸村から数えると14代にあたります。

 大八や娘たちが生き残ったのは、幸村が生前、大坂の陣で敵方にあった仙台藩伊達氏の家臣、片倉重綱[(しげつな)小十郎]に、子供たちを託したからです。
講談などでは、幸村の娘の阿梅(おうめ)が白装束になぎなたを持って重綱の前にあらわれ、「自分は真田幸村の娘だ」という書状を持っていたので、重綱が「自分も男だ、わかった」と引き受けた、という涙の物語で語られていますね。
ただ本当のところは、そうではないでしょう。
重綱がそれほど重大な決断を一人でできるとは考えにくい。
事前に藩主の伊達政宗と幸村との間で、子供を頼むというやりとりがあったのではないかと思いますが、そのあたりの事情は史実としてはわかっていません。

 引き取られた後、藩は大八の存在を隠していました。
家康を窮地に陥れた幸村の子が生き残っているとなれば、徳川幕府が許すはずがありませんから。
そこで伊達家は幕府を欺くため、大八は「8歳のときに京都で死んだ」という情報を九度山の蓮華定院に流したうえで、実際の大八については、家系図を操作して「真田幸村の叔父の孫だ」と幕府に報告していたようです。

 大八は、伊達家に召し抱えられた際、一時真田姓を名乗りましたが、幕府から家筋調査を受け、姓名を片倉守信(もりのぶ)と変えました。
いまの宮城県蔵王町に、360石を与えられました。

 その後、次の辰信(ときのぶ)の代になって、正式に真田姓に復帰しました。
大坂の陣から100年近くも経ってからのことです。


幸村は兄の信之と袂を分かちましたが、1673年、辰信の時代に、信之の子孫と再会したという記録が残っています。
信之を初代藩主とする松代藩の3代・幸道が、愛媛にあった伊達家から正室をもらうことになり、その際、伊達の本家が後見人になりました。そこで、伊達屋敷に幸道が訪れ、供応の場で二人が対面したそうです。

 一方、大八の姉である阿梅は、のちに片倉重綱の後室になりました。
重綱との間に子はありませんでしたが、片倉家3代目となる景長の養母となり、領民に長く慕われたそうです。
また、阿菖蒲(おしょうぶ)は、重綱とは別の家系にあたる片倉家に嫁いでいます。
阿菖蒲は墓所に父・幸村の墓を建てて供養しました。

 仙台真田家の屋敷は、明治維新のときになくなっていて、今はありません。
鎧は代々、うちに残っています。
これは真田昌幸から幸村に伝えられたもので、大坂冬の陣が終わってから大八に形見分けしたものでしょう。

 仙台真田家の文書は大量に残っています。
いまは蔵王町の教育委員会に預けて、整理してもらっているところです。
とくに大八から数えて9代、江戸時代末期から明治期の当主だった真田幸歓(喜平太)のころのものがたくさんあって、いま残っている仙台真田氏の家系図も、「古い家系図をもとに幸歓のときに編纂し直した」と、記録されています。

 片倉家とのつながりは代々ありますね。
いまも、片倉家のご当主とは交流があり、双方の家が途絶えぬよう、後見しあう関係です。

 NHK大河ドラマの「真田丸」が来年始まるとあって、最近はイベントなどに呼ばれる機会も増えました。盛り上がりを感じています。

(本誌・鈴木 顕、森下香枝/カスタム出版・横山 健)

※週刊朝日  2015年11月6日号

町の顔は「マリコ人形」 長野県・富士見町

15-2】(信濃毎日新聞社・菅原絵里菜)引用編集
さまざまな「マリコ」を前に作業する大御堂恵子さん
長いまつげの大きな瞳に、笑みを浮かべた真っ赤な唇。
〓(順の川が峡の旧字体のツクリ)の染まった丸い顔。
独特の風貌の人形に「それでいいのよん」「うまくいくわよん」といった前向きなメッセージが添えられている。
「マリコ」と名付けられた女の子の人形が、長野県富士見町の新たな名物になりつつある。

  町内で買えるのは商店街や道の駅など9カ所。
酒店では酒瓶を抱えた「よっぱらいマリコ」、豆腐店は四角い顔の「とうふマリコ」―とそれぞれ違う人形(1体980円前後)が売られている。

 作っているのは、町内の人形作家、大御堂恵子(おおみどう・けいこ)さん(40)。
知人の高校生の娘に「マリコという名前がぴったり」と言われ、そのまま名付けた。
2010年夏のことだ。

 最初は、女の子の形をした人形をレストランに置いただけだったが、文房具店にペンをかたどった「ペンマリコ」を納めたところ評判に。
「うちにもオリジナルのマリコを作ってほしい」との声が相次ぎ、さまざまな変わり種を作ることになった。
その店でしか買えないマリコ人形を集めよう―と町内を巡るファンも現れた。
大御堂さんによると、これまでに千体以上が売れたという。

 町発行の観光情報誌には、昨年秋から「マリコが行く」と題するコーナーもでき、町の見どころを案内する役として登場。
町産業課主任の清水美紀(しみず・みき)さん(31)は「富士見町のPRに一役買ってくれている」と話す。

 町内の商店で生まれ育った大御堂さん。
周りには閉店した店も多く、現在の商店街の姿に寂しさも感じるという。
「マリコをきっかけに町に興味を持ち、訪れる人が増えてほしい」。
そんな願いを込め、365日、休まずに針を動かしている。


*
 マリコ人形は、富士見町の友好都市、東京都多摩市にある共同のアンテナショップでも販売されている。
「キモかわいい」と評判。ルバーブジャムやそばといった町特産品とともに、多くの人に愛されることを願う。

『探訪 比企一族』。 東松山のグループが出版

2015年11月5日】東京新聞、引用編集
本を執筆した比企一族歴史研究会の
西村裕さん(中)、木村誠さん(右)と企画担当の佐浦希望さん
平安末期から鎌倉時代にかけての比企地方(現在の東松山市など)の豪族・比企一族について研究する東松山市の市民グループ「比企一族歴史研究会」が、成果をまとめた単行本「探訪 比企一族」(A5判二百八十三ページ、千七百二十八円)を出版した。
比企一族は流刑中の源頼朝を物心両面で支え、鎌倉幕府誕生に大きな役割を果たしたが、頼朝の没後、北条氏に滅ぼされた。
このため史料は少なく、全国的な知名度も低い。
研究会は「県民に比企一族を知ってもらい、町おこしにもつなげたい」と話している。 (中里宏)

 研究会は東松山市が運営する「きらめき市民大学」の郷土学部で二年間学んだ市民を中心に二〇一二年四月、発足した。
現在の会員は二十九人。
会長の西村裕さん(68)は「比企一族のことを授業で学んだのがきっかけ。歴史に埋もれ、地元でもあまり知られていない一族をもっと勉強し、市民に語り継いでいこうと有志が集まった」という。

 研究会は鎌倉幕府による歴史書「吾妻鏡」などの文献研究のほか、平治の乱(一一五九年)の後、頼朝が幽閉されていた静岡県・伊豆地方に出かけて伝承・伝説を調査した。
原稿は西村さんと副会長の木村誠さん(75)が執筆した。
西村さんは「歴史は勝者の記録と言われるように、北条氏側から書かれた吾妻鏡には、比企一族のことがわずかしか書かれていない。
しかし、各地に伝承・伝説は残っている。
これらの伝承こそが敗者の歴史ではないかと思う」と話す。
木村さんは「伝承・伝説にくわしい人の高齢化が進み、時間との闘いだった」という。

 頼朝の乳母だった比企尼(ひきのあま)は、伊豆に流されて孤立無援だった頼朝を二十年にわたり物心両面で支援したとされる。
研究会は「比企尼の支援がなければ、鎌倉幕府の成立はなかったといっても過言でない」とみる。比企尼の次女、三女は頼朝の嫡男の二代将軍頼家の乳母に任ぜられたほか、家督を継いだ養子の比企能員(よしかず)の娘・若狭局(わかさのつぼね)は頼家の妻となるなど、一族は初期の鎌倉幕府で有力御家人となった。

 このほか、比企尼の長女の丹後内侍(たんごのないし)は、江戸時代まで薩摩藩主を務めた島津氏の祖・島津忠久の母親で、次女は現在の川越市を拠点にした河越重頼(しげより)に嫁ぎ、その娘は源義経と最期をともにした正室の郷(さと)御前とされる。

 東松山市周辺には、頼家が北条氏に殺された後、比企地方に戻った若狭局が、迷いを断ち切るため頼家の形見のくしを投げ入れたとの伝説が残る串引沼など、比企一族にまつわる伝承や鎌倉と共通する地名が多い。

 西村さんは「今後は義経と郷姫の話や島津氏に関する鹿児島の伝承などを足を運んで調べたい」と話している。
 問い合わせは「まつやま書房」=電0493(22)4162=へ。

坂上 田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)。東北地方を制定。6月17日没

坂上田村麻呂。東北地方を制定。Sakanoue no Tamuramaro 。6月17日没
坂上 田村麻呂

・西暦758年~811年6月17日没。54歳。


坂上田村麻呂は、797年征夷大将軍(せいい たいしょうぐん、後注)になり、
東北地方を制定しました。

胆沢城(いさわじょう)

坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)は、
平安時代初期の武将です。

桓武天皇に征夷大将軍に任命されました。
蝦夷(えみし)を制圧しました。
蝦夷の拠点の胆沢(いさわ、岩手県奥州市)
胆沢城を築きました。


蝦夷(えみし)の族長のアテルイ(阿弖流為)は、
自ら降伏してきました。


【異論】
  • 蝦夷(えみし)は、九州南部の熊襲(くまそ)とおなじく、日本人です。
    反乱の意図もありませんでした。
  • 坂上田村麻呂は「平定」ではなく、「侵略」をしてしまいました。
  • この頃から、中央の東北差別は歴史的、構造的です。
    東北は、日本の良心の鑑でした。

田村麻呂は、朝廷にアテルイを助けるように願いましたが、
処刑されてしまいました。

阿弖流爲(アテルイ)、母禮 (モレ)之  清水寺 
 
坂上田村麻呂は、京に清水寺を建てました。

「阿弖流爲(アテルイ)、母禮 (モレ)之碑」を見ることができます。


【名言】

(坂上田村麻呂の独白) 「みなさま、清水寺(きよみずでら)におこしの節は、
無実だったアテルイや蝦夷(えみし)の人々をねんごろにほおむってください」


【※】【征夷(せいい)大将軍とは

蝦夷(えぞ、えみし)を征討する大将軍のこと。
エゾとは、東北の朝廷に従わない日本人などのことを言いました。

 源頼朝のあとは、
「幕府の最高司令官」
のことをさします。
足利氏、徳川氏も征夷大将軍です。



桓武天皇の命で坂上田村麻呂は京の鬼門封じに津軽に北斗七星を配置