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七福神


七福神

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

七福神

七福神
七福神(しちふくじん)とは、福をもたらすとして日本で信仰されている七柱のである。

一覧

恵比寿  <唯一日本由来
イザナミイザナギの間に生まれた子供を祀ったもので古くは「大漁追福」の漁業の神である。時代と共に福の神として「商売繁盛」や「五穀豊穣」をもたらす神となった。唯一日本由来の神である。

大黒天 <ヒンドゥー教
インドヒンドゥー教シヴァ神の化身マハーカーラ。日本古来の大国主命の習合。大黒柱と現されるように食物・財福を司る神となった。

毘沙門天 <ヒンドゥー教
元はインドのヒンドゥー教のクベーラ神。戦いの神であったが、仏教に取り入れられてから、福徳増進の神としてしだいに民衆に信仰される。日本では毘沙門天(ヴァイシュラヴァナ)と呼ばれる。

弁才天(弁財天) <ヒンドゥー教、紅一点
七福神の中の紅一点で元はインドのヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー神。仏教に取り入れられ、音楽・弁才・財福・知恵の徳のある天女となり選ばれた。七福神の一柱としては「弁財天」と表記されることが多い。

福禄寿 <道教
道教道士天南星、または、道教の神で南極星の化身の南極老人。寿老人と同一神とされることもある。長寿と福禄をもたらす。

寿老人 <道教
道教の神で南極星の化身の南極老人。日本の七福神の一人としては白鬚明神とされることもある。

布袋 <仏教の禅僧
の末期の明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したといわれる仏教の禅僧。その太っておおらかな風貌が好まれ、手にした袋から財を出し与えてくれる。弥勒菩薩の化身ともいわれている。

起源

歴史

インドヒンドゥー教の神である大黒を台所の神として祀ることは最澄比叡山で始めたことで、それが徐々に民間に広まったという。これが民間において日本の土着信仰の神である恵比寿とセットで信仰されるようになった歴史的な経緯はよくわかっていない。平安時代以降、京都鞍馬の毘沙門信仰からはじまった毘沙門天を恵比寿・大黒に加え、三神として信仰されることが起こった(初期の恵比寿は毘沙門天を本地とすると考えられていた)。この三神セットのパターンはかなり後まで一般的であったが、平安末期〜鎌倉初期の頃、近江竹生島の弁天信仰が盛んになると毘沙門天ではなく「恵比寿・大黒・弁才天」とするケースも増えていった。
室町時代仏教の布袋、道教の福禄寿・寿老人なども中国から入ってきてそれぞれに知られるようになり、それらをまとめて七柱の神仏のセットができたのは室町時代末頃近畿地方から始まったものである。この頃は銀閣寺に代表される東山文化の時代。中国の文化に影響され、大陸的な水墨画が多く描かれた。もてはやされた画題は『竹林七賢図』(竹林の七賢人)。この絵に見立てて、人々は別々に信仰されていた7つの福の神を集め、七福神とした。ただし、当初は必ずしもメンバーが一定していなかった。
江戸時代にはほぼ現在の顔ぶれに定まったものの、その後もバリエーションが生み出されることがあった。寿老人と福禄寿はともに南極老人星の化身とされることから、この二者は本来同一のものとみなし、寿老人の代わりに吉祥天・お多福・福助稲荷神猩猩虚空蔵菩薩[2]が入れられることがあった。他に宇賀神・達磨・ひょっとこ楊貴妃鍾馗不動明王愛染明王・白髭明神が七福神の一人に数えられたことがあった(不動明王と愛染明王、またはお多福とひょっとこはセットで入る場合があった)。

八仙起源説

中国では、七福神と似た八仙(八福神)と呼ばれるものがあり、全てが実在の人物(仙人)であったといわれ、各地でその姿を描いた絵が信仰の対象になっている。絵は日本の宝船に乗る七福神に似た、八仙全員が船に乗って海を渡っているという場面を描いたものが主流なので、この八仙が元になったとする説がある。
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七福神

川越の七福神桑原政則






リー・クアンユー氏没後1年 シンガポール経済の歴史と未来

2016/03/23、岸泰裕。抜粋編集。

シンガポールの建国の父である、リー・クアンユー初代首相が死去してから、2016年3月23日で1年になる。

35歳で首相となってから、50年以上もの長きにわたり、様々な形でシンガポールをけん引。強引な手法を多用したこともあって大きな批判を受けながらも、積極的な移民の活用や低税率により、西洋諸国から見ると、政治的・人道的には敵対、経済的には友好的な国家へと成長させた。

しかし、カリスマが不在となった今、シンガポールの経済にほころびが出始めている。没後1年のこのタイミングで、リー・クアンユー氏がどのような国づくりを行っていたのか、またこれからどの様に変化していくのか見ていきたい。

シンガポールという異質の国家

シンガポールと聞くと、多くのビジネスパーソンは「金融立国」とのイメージをもっているが、シンガポールはかつて工業立国をめざしたことがある。GDPに占める工業(製造業)の割合は2割強だが、この工業による経済発展は国策で行われた。

現在の金融での存在感もこの国策の延長線にある。そもそも、シンガポールには資源がほとんどなく、国土の大きさも淡路島程度だ。

その為、通常の国内で産業を一から育成する事は極めて困難であると判断したリー・クアンユー氏は、法人税を極めて低くすると共に、非植民地時代の言語である英語をそのまま標準語とした。

また教育に極めて多額の国費を投資し国民の教育レベルを上げ、積極的な移民政策を行なった。そうすることで、高等教育を身に着けた人財、ならびに安価で利用できる人材を豊富にし、かつ低税率で英語が共通語という西洋諸国から見て理想的な国家を作り上げた。

このシンガポールの強みは、そのまま金融業界でも通用する。金融機関の進出が多くなっているために金融立国のイメージが強い。

もう一つの注目すべき点は軍事面の強さだ。スイスが永久中立国となっているため、戦火に巻き込まれない可能性が高いとして、富裕層がプライベートバンキングサービスを同国に求めている事は有名だが、シンガポールの場合は小国ながら強い軍事力が信頼を得ている。

徴兵制も持ち、また近代的な軍を保持している。これらにより、数少ない、ムーディーズ・S&P・フィッチの3つの格付け機関において国債の評価が最高である国家だ。世界で最も信頼できる国家の1つとも言える。

リー・クアンユー氏による強権な経済立国

この様な国を作り上げることができた理由について、象徴的なのはシンガポール政府にて90年代に提唱された開発型民主主義についての考え方だ。強い国家を作り上げるために自由の制限と、社会共同体の強化を挙げている。

民主主義・人権に対して彼らは、人権よりも国家が優越する事を唱え、民主主義や人権を二の次として経済発展にすべてを注いだ。

国民も、当初はマレーシアより切り捨て、追放の様な形で強制的に独立させられたシンガポールが数十年で東南アジア一の国家に急成長した事で支持していた。

しかし近年においては経済も成熟し終わり、また世界的な経済不況により経済成長が減速始めた事により、国民が政府に対して不満を持ち始めている。

特に近年は移民・ビザ保有者がシンガポールの人口の40%近くなっているため、非移民のシンガポール人からすると、外国人が国民の職を奪っている様に見える。

また近年まで続いていた不動産化価格の高騰、そして2012年に起こった移民の外国人投資家による高級スポーツカーに乗っての乱暴運転により国民の死傷者が出た事も不満の高まりの要因だ。

これまでの成長モデルを破棄するのか?

シンガポールの移民抑制政策については、現在移民制度の強化を検討している日本政府も注視している。

従来シンガポールが行ってきた、世界各国からの高度人財受け入れと外国資本誘致は日本もこれからの経済成長に利用したい政策だ。出生率の低下の問題や賃金の高止まり、国際的に見た低い失業率についても日本とシンガポールは問題を共有している。

これらの問題に対する施策として日本が導入しているシンガポールの成長モデルを、シンガポールが破棄しようとしているのだ。

もっとも、シンガポール政府はこの政策方針を転換する事は考えていない。国民の不満にこたえるべく移民の削減と認可の基準の高度化は進めようとしているが、移民自体はこれからも発展の為に必要だとしている。国民からの要望と政府の成長モデルとのせめぎあいがこれからも続いていくであろう。

“リー・クアンユー”という大きなカリスマを失ったシンガポールは、国の羅針盤を変革するか否かの瀬戸際に立っている。

民主主義の導入をこれから進めるにあたり、国民の意見がより経済政策に影響する。その意見は既存の経済政策と相反する物となりかねない。

今、シンガポールが抱える諸問題は日本と同様の問題、もしくは日本が今後直面する可能性がある問題だ。

3月24日には予算案も公表される。シンガポール経済のこれからは、日本経済の道しるべという意味でも注視すべきだろう。(岸泰裕、元外資系金融機関勤務・大学非常勤講師)

久能山のページ。久能山東照宮

By Yoshio Ichimura

 ・北辰の道、太陽の道、不死の道
 ・日光東照宮の陽明門と北極星、江戸城、増上寺
 ・久能山東照宮、駿府城、鳳来山、岡崎城/大樹寺、京都御所
 ・富士山、世良田東照宮

*東照宮=徳川家康の廟所。久能山東照宮が元締め。
*「松平家」 <豊田市松平町。徳川家の母体。1381年、徳阿弥が松平家に婿入り。高月院。豊田市はトヨタ自動車の本社が。
*パクス・トクガワーナ 260年 【cf.】パクス・ロマーナ  by アウグストゥス( ローマ帝国の初代皇帝、紀元前27年 - 紀元14年)。
*1720年。江戸 100万人。ロンドン 90万人。
*生誕の岡崎。出世の浜松。大御所の静岡。東海(愛知、静岡、神奈川)の旧分国地図  
    岡崎<三河。浜松<遠江(とおとうみ)。駿府=静岡市<駿河。
*徳川家康。「日本をどうするか?」。広大な湿地帯の江戸を開拓し、関東、東北の東日本を西日本並みに。内需主導。


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Musashikanken rules

武蔵観研のルール 要編集

House Rules
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2. 受け止める  accept 受け入れる
3.Follow directions.


オークランド。サンフランシスコの対岸で42万人。

オークランドCity of Oakland  (カリフォルニア州)
出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』

Oakland was ranked No. 8 on Lonely Planet's roster of Top Ten U.S. Travel Destinations for 2015.
Oakland was ranked No. 8 on Lonely Planet's roster of Top Ten U.S. Travel Destinations for 2015. 
 Click here to view Lonely Planet's roster. This follows Oakland being ranked as the 5th most desirable destination to visit by The New York Timesin 2012. To learn more about visiting Oakland, please visitwww.visitoakland.orgClick here for a roster of other recent accolades.  


 郡 アラメダ郡 Alameda County
 市 オークランド

人口 (2008年現在)
  市域 420,183人
    人口密度  2,751.4人/km2(7,126.1人/mi2)
  都市圏 7,264,887人
    都市圏人口密度  人人/km2(人人/mi2)
公式ウェブサイト : http://www.oaklandnet.com/

オークランド(英語: City of Oakland)はアメリカ合衆国カリフォルニア州アラメダ郡にある、サンフランシスコ湾に面した港湾都市、アラメダ郡庁所在地。かつて日本から移民が渡った地であり、日本語で王府(おうふ)とも称した。

概要

オークランドはサンフランシスコの対岸の8マイル(約13km)東に位置し、人口ではアメリカで44番目、カリフォルニア州で8番目に大きな都市である。 また、オークランドは米国西海岸において主要な港湾都市であり、Kaiser Permanente、Clorox、Dreyer's、Plus World Markets等の大企業が本社を置くサンフランシスコ・ベイエリアのイーストベイと呼ばれる地域の中核都市である。 また、2000年度の合衆国国税調査ではオークランドはロングビーチと並び、アメリカでもっとも人種的に多様な都市である。

大陸横断鉄道開通から栄えたが、1906年のサンフランシスコ大地震後に被災者が流入し、大幅に人口を増やした。

1960年代以降、犯罪率が上昇し、2000年代でも全米屈指の犯罪都市となっている。しかし、ベイエリア一帯での地価の急激な上昇により、犯罪率はわずかながら減少している。2012年に発表されたFBIの統計では、1000人当たりの暴力的な犯罪の率は16.8%で全米4位、殺人件数は104、強盗と車両盗難事件は全米一多かった[1]。

1991年10月21日、数日前に発生した小規模な山火事が、強風と乾燥のためにオークランドの市街地まで燃え広がり、町は火の海と化した。この火災による死者は24人、焼失家屋はおよそ3000棟で、1901年にシカゴで発生した大火、1906年にサンフランシスコで発生したサンフランシスコ地震に匹敵する。 これら一連の災害はオークランド・ヒル火災(Oakland Hills Fire)と呼ばれている。

当市を「USオークランド」、ニュージーランドのそれを「NZオークランド」と表記する場合がある。ちなみに、両市とも日本の福岡市の姉妹都市であるという共通点もある。

地理

サンフランシスコの対岸8マイルに位置し、北はバークレーと接している

市の中心部には湖(Lake Merritt,レイクメリット)があり、湖の西側には高層ビルなどのオフィス街やチャイナタウンなどが広がっている。

特色

オークランドのチャイナタウンは同州でも特に有名であり、対岸のサンフランシスコのチャイナタウンと区別するため"Oakland Chinatown"と呼ばれることが多い。かつてチャイナタウンの中に日本人街も存在した。現在でも王府仏教会など当時の名残がある。


人種構成:
白人31.29%、
アフリカン・アメリカン35.66%、先住民0.66%、
アジア15.23%、太平洋諸島系0.50%、その他の人種11.66%、及び混血4.98%である。
人口の21.89%はヒスパニックまたはラテン系である。

オークランドはカリフォルニア州のなかでもロングビーチと並びとりわけ人種の混成率が高い。アフリカ系アメリカ人、アジア系(中国人、韓国人、台湾人、日系人、ベトナム人など)、白人、メキシコ系アメリカ人(チカーノ)などである。

貧困率
人口の19.4%及び家族の16.2%は貧困線以下

文化

イーストベイまたはベイエリアの中心的立地から、サンフランシスコとバークレーと共にリベラルな風土である。 音楽ではリズム&ブルース、ファンク、パンクロックやヒップホップの文化が馴染んでいてオークランドから生まれた著名なバンドではタワー・オブ・パワー、トニー・トニー・トニー、グリーン・デイ、Souls of Mischief、Del tha Funkee Homosapien等があげられる。

また、オークランドは特徴のある政治的な都市であり1966年には黒人民族主義運動・黒人解放闘争を展開していた急進的な政治組織であるブラックパンサー党が結成された地でもある。

治安

オークランドの治安は良いとは言えない状況である。とくにウェスト・オークランド地区での治安が悪化している。


交通・物流

北に州都サクラメント、南にシリコンバレー、西にサンフランシスコ、東にもコースト山脈をへだててセントラル・バレーの各都市があり、オークランドはそれらの都市につながる道路や鉄道が集中する交通の要衝である。また周辺はサンフランシスコやサクラメントに職場がある人々の居住地域でもある。

道路

ニュージャージー州を起点とする州間高速道路80号線が市の北部を通り、ベイブリッジでサンフランシスコ湾を渡り、終点のサンフランシスコへつながる。ベイブリッジをオークランド側からサンフランシスコに渡る際は通行料がかかる(料金は曜日と時間帯によって異なる)。ベイブリッジのすぐ東側にはマッカーサー・メイズ(迷路)(MacArthur Maze)と呼ばれる大規模なジャンクションがあり、そこで80号線は580号線、880号線と接続している。そのほか市内を通るフリーウェイには州間高速道路980号線、州道24号線、州道13号線がある。

鉄道

かつてはキー・システムなどの路面電車やサクラメント・ノーザン電鉄などのインターアーバンも運行されていたがこれらはすべて廃止となり、一部はBART(ベイエリア高速鉄道)やACトランジットのバスに置き換えられた。

BART

市内にはBART(ベイエリア高速鉄道)の駅が8つあり、対岸のサンフランシスコを含むベイエリアを広範囲に結んでいる。ダウンタウンからサンフランシスコの中心部までBARTの所要時間は十数分である。

アムトラック

市内には2つのアムトラックの駅がある。オークランド - ジャック・ロンドン・スクエア駅にはキャピトル・コリドー、サン・ホアキン、コースト・スターライトの3列車が、オークランド - コロシアム駅にはキャピトル・コリドーが乗り入れている。コロシアム駅ではBARTへの乗り換えが可能である。

バス

ACトランジット(AC Transit)のバスが近隣都市と市内を繋いでいる。

空港

市中心部から南7キロメートルにオークランド国際空港がある。国内線を中心に運行され、国際線の多いサンフランシスコ国際空港を補完する役割も持つ。サウスウエスト航空が1989年から運行しており、準ハブ空港として設定している。BARTのコロシアム駅からエアーバートと呼ばれるバスが運行されている。

海上輸送・交通

鉄道貨物ターミナルと連係したオークランド港がありコンテナターミナルとして世界的に有名である。岸壁に立ち並ぶ荷役用の大きなクレーンは対岸のサンフランシスコからもよく見える。

ジャック・ロンドン・スクエアからはサンフランシスコのフェリービルディングまでフェリーが運航されており主に通勤用として利用されている。

スポーツ

メジャーリーグのオークランド・アスレチックス(A's)、NFLのオークランド・レイダーズ、NBAのゴールデンステイト・ウォーリアーズのフランチャイズである。A'sとレイダーズはオークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアムを、ウォーリアーズはその隣にあるオラクル・アリーナを本拠地として使用している。

姉妹都市

オークランドは Sister Cities International によって指定された、7つの姉妹都市を有している:

モロッコの旗 - アガディール(モロッコ王国)
ジャマイカの旗 - オーチョ・リオス(ジャマイカ)
キューバの旗 - サンティアーゴ・デ・クーバ(キューバ共和国)
ガーナの旗 - セコンディタコラディ(ガーナ共和国)
中華人民共和国の旗 - 大連(中華人民共和国)
ロシアの旗 - ナホトカ(ロシア連邦)
日本の旗 - 福岡市(日本)
1962年10月13日、福岡市と姉妹都市提携を結んだ。その後、福岡市とは交換教育プログラムなどを通して交流を深めている。



City of Oakland(英語)
Google マップ(日本語)
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カテゴリ: カリフォルニア州の都市サンフランシスコ・ベイエリアの都市オークランド (カリフォルニア州)北アメリカの港町
最終更新 2015年9月21日 (月) 00:46 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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大前研一:日本人が知らない日本歴史について 【前編】

PRESIDENT 2015年1月12日号: 小川剛=構成 市来朋久=撮影。抜粋編集

歴史は、嘘をつく。
なぜなら人間の歴史は戦争の歴史であり、歴史は勝者によってつくられるからだ。
第二次世界大戦の敗戦国となった日本に何が起きたのか。
そしてどのような負の遺産が、今日に至るまで残されているのか。
大前研一氏に、語ってもらった。
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▼そもそも歴史は捏造されるもの

ことあるごとに日本は中国や韓国から「正しい歴史認識を持て」と非難されるが、日本が一方的に責め立てられるほど中国や韓国の歴史認識が正しいわけではない。
歴史認識が正しくできていないのはあらゆる国にいえる。

そもそも歴史は捏造されるものだ。
それぞれの国の為政者が都合のいいように歴史を捏造して、国民教育にも利用してきた。
歴史認識を擦り合わせようとすれば、相手がどういう歴史を学んできているのかを知り、自分が学んだ歴史と突き合わせなければならない。
歴史を遡ってどこから認識に齟齬が生じて、そこにどのような捏造が加えられたのかを検証し、相手に認めさせられるかどうかは極めて重要だが、日本はこの方面がことさら弱い。


自己主張を美徳としない国民性もあってか発信力や表現力が乏しいうえに、短いスパンで内閣がコロコロと代わるのもよくない。
首尾一貫したアプローチが継続的にできないために、時間の経過とともに歴史問題が日本に不利に働いているのだ
日本の立場を世界に向けて雄弁に語れる政治家がいれば、日本人は右傾化しないと私は思う。
海外の文化や技術を積極的に取り入れ、世界の市場から原材料を調達し、世界の市場で商品を売ってきた国なのだから、右傾化する理由がない。
日本の政治の貧しい外交力、発信力と自己表現力の乏しさが、ここにきて日本人の右傾化を加速しているのではないか。

いつかきた道にならないためにも、今日に大きな影響を及ぼしている近現代史、特に戦後史というものを日本人は学び直して再構築する必要があると私は感じている。
日本人の多くが歴史認識を誤っている部分もあるし、関係国が誤認している部分もある。
それらを正して戦後史を再構築しなければ日本は過去に足をすくわれて前に進めないし、近隣諸国との関係も動かせない。

自己の正当性を主張して相手を非難するばかりでは、歴史問題の解決は期待できない。
虚心坦懐に互いの歴史認識に踏み込んで、認識ギャップが生じた理由を相互検証し、白紙の年表に共通の歴史を書き込んでいくことが解決の鍵になると思う。

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ヤルタ会談の米ソ密約が領土問題の元凶

まず日本の歴史認識の問題として、ロシア(旧ソ連)との関係を取り上げる。
日本政府は北方領土を「日本固有の領土」として返還運動を行ってきた。
そのため日本人の多くは、日ソ中立条約があったにもかかわらず、日本がポツダム宣言を受諾して無条件降伏した後にソ連軍が侵攻を続け、北方領土を不法に占拠し、以来、実効支配しているのだ、と思い込んでいる。
しかし史実は異なる。

連合国側で戦後の対日政策が最初に話し合われたのは、第二次大戦中の1943年に開かれたカイロ会談で、出席したのはルーズベルト米大統領、チャーチル英首相、そして蒋介石中国国民政府主席の3首脳。
日本の無条件降伏、日本軍が占領した太平洋の島々の剥奪、満州、台湾、澎湖島の中国返還、朝鮮独立などを盛り込んだカイロ宣言が発せられて、これが後のポツダム宣言につながっていく。

その後、1945年2月のヤルタ会談において戦後処理問題が本格的に話し合われることになるのだが、ドイツの分割統治やポーランドの国境策定などテーマの中心はヨーロッパの戦後処理だった。
対日政策については、ヤルタ会談に先立ってルーズベルト米大統領、スターリンソ連共産党書記長、チャーチル英首相の間で秘密協定が交わされている。それがヤルタ会談で「ヤルタ協定」として取りまとめられた。


「米ソの密約」ヤルタ会談に出席したルーズベルト米大統領(中央)、スターリンソ連共産党書記長(右)、チャーチル英首相(左)。
秘密協定が交わされ、ヤルタ協定として取りまとめられた。
スターリンが主張したのは南樺太の返還と千島列島の領有で、ルーズベルトはこれを認める見返りとしてスターリンに日ソ中立条約の破棄と対日参戦を求めた。
実は、ルーズベルトは日米開戦当初から何度もソ連に対日参戦を要請してきた。
スターリンは日ソ中立条約を表面上は守ってきたのだが、ヤルタ協定でドイツ降伏後2カ月ないしは3カ月というソ連の対日参戦のタイミングが決まった。

ドイツが無条件降伏したのは1945年5月。
その3カ月後の8月8日にソ連は日本に宣戦布告(日ソ中立条約は4月5日に不延長を通告)して、ソ連軍は満州、南樺太、朝鮮半島に進攻。
千島列島に到達したのは日本がポツダム宣言を受諾した8月14日以降。

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したがって、ソ連が日ソ中立条約を破って南千島を不当占拠したという日本政府の言い分は当たらない。
戦争はすでに終わっていて、日本は「無条件」降伏をしていたのだ。
満州および南樺太、千島列島に対するソ連の出兵がアメリカの強い要請によることは明白だし、北方四島を含む千島列島を「戦利品」としてソ連が得ることをアメリカは認めていた。
日本固有の領土、というなら、ロシアに対して主張するのではなく、アメリカに対して“取り消し”を迫らなくてはならない。

実は当時、スターリンは北海道を南北に割って北半分をソ連が占領することを求めた。
もし米大統領がルーズベルトのままだったら、実現していた可能性もある。
しかしドイツ降伏直前にルーズベルトは病死、後を受けたトルーマンはスターリンの要求を拒絶、戦勝権益として代わりに南樺太の返還と南クリル(北方四島)を含めた千島列島の領有をソ連に提案したのだ。

こうした経緯を日本人はほとんど知らされていない。
ただし、政府・外務省はよくわかっていて、戦後10年以上、北方領土の返還を求めてこなかった。
それどころか1951年のサンフランシスコ講和条約において、早期講和のために日本は千島列島の領有権を一度放棄している。

▼日ソ関係の修復をアメリカは警戒した

これを翻して、「放棄した千島列島に北方四島は含まれない」との立場を日本政府が取るようになったのは、日ソ共同宣言が出された1956年のことだ。
サンフランシスコ講和条約にソ連はサインをしていない。
したがって日ソの国交正常化は日ソ共同宣言によってなされるが、このとき平和条約を締結した後に歯舞、色丹の二島を日本に引き渡す二島返還論で両国は妥結寸前まで交渉が進んだ。


しかしアメリカがこれに難色を示す。
東西冷戦が過熱する状況下で、領土交渉が進展して日ソ関係が修復することをアメリカは警戒したからだ。
1956年8月に日本の重光葵外相とダレス米国務長官がロンドンで会談した際、ダレスは沖縄返還の条件として、ソ連に対して北方四島の一括返還を求めるよう重光に迫った。

当然、当時の状況下で四島一括返還の要求をソ連が受け入れるわけもない。
結局、平和条約は結ばれず、同年10月に署名された日ソ共同宣言(12月発効)では領土問題は積み残された。
いまでは四島一括返還が日本人の宿願であるかのように刷り込まれているが、そもそもの発端は(日本とソ連を割くための)アメリカの嫌がらせなのだ。

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封印された問い「なぜ対米従属が永久に続くのか」

日米関係というのも不思議な関係である。
我々はサンフランシスコ講和条約の締結をもって、日本が独立国になったと教えられてきた。
しかし、「日本は本当に独立国家なのか」という問いかけは、多くの日本人の喉元にずっと引っかかっている。

占領下と変わらずに今も米軍基地が日本全国に置かれて、しかも土地使用料をアメリカからもらうのではなく思いやり予算として駐留経費まで日本が負担している。
占領軍が残していった憲法をそのまま後生大事に守っていて、しかも共産党や旧社会党のように反米思想を持った勢力が、その憲法を守り抜こう、という倒錯した関係がある。

民主党政権時代、「日米中正三角形」という米中等距離の外交方針を掲げた鳩山由紀夫首相に対してオバマ大統領が面会を拒否するほどアメリカは激怒した。
なぜ日本はアメリカの後ろを自動的についていくだけの追従外交しか許されないのか。
なぜ他国に接近するとアメリカから叩かれるのか。
世界に例がないほど自由に使える米軍基地が半ば永続的に維持されているのはなぜか。
どうして自国の憲法を変えられないのか――。
こうした疑問に日本の歴史の教科書は何も答えてくれない。

独立国家の日本にアンタッチャブルの米軍基地と軍事力が既得権のごとく存在し続ける理由を正当化するドキュメントを、我々は見たことがない
サンフランシスコ講和条約を読む限りはそれにはまったく触れていないし、日米安保条約にも書かれていない。

北方領土をめぐる日ロの歴史
▼戦後15年間の「歴史の空白」

安倍晋三内閣が閣議決定した集団的自衛権はアメリカの20年来の要望である、とされているし、これが日米ガイドラインの基になる、といわれている。
しかしアメリカ議会ではこれによって日本が世界のどこでも米軍指揮下で参戦できるので国防予算が助かる、と歓迎されていることが日本ではまったく報道されていない。
そうした対米永久従属、という合意が記された外交文書がどこかに存在するのかもしれないが、日本国民には知らされていない。
世界史の中でも希有な「無条件降伏」にそれが含まれているのかもしれないが、国民にはいっさい説明がない。

前述の北方領土問題にしてもそうなのだが、食うに困っていた戦後15年間ぐらいの期間、日本人の歴史認識はほとんど空白に等しい。
どんな戦後処理が施されたのか、何も知らないまま、知らされないまま、事態は進行して、気づいたときには冷戦構造の中でさまざまなことが固定化された。
戦後15年の空白の歴史認識を正しく再構築する作業は、日本の真の独立のために必ず必要だと私は思っている。

シンガポール コラム


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