天海、喜多院、徳川家康 

喜多院前の天海像
境内の慈眼堂(じげんどう)には厨子(ずし)に入った天海の木像が安置されています。
  • 天海を尊宗し信じ切っていた家康は、タカ狩りの時などに天海を訪ねたりしました。
  • 家康は本願寺を東西に分けたように、天台宗を2分しました。
    喜多院を東の比叡山と言う意味で、東叡山という山号にしました。
    (京都東北の比叡山は、京都を鎮護しています。)
  • のちに、天海は、江戸をまもるために江戸城東北(鬼門)の上野に鬼門よけのために寛永寺を建て、将軍家の菩提寺にしました。
    山号を喜多院から移し、東叡山寛永寺としました。
喜多院前の日枝神社
川越の日枝神社まえの告知板
  • 仏ばかりでなく、神にも江戸をまもってもらえるようにと、川越に習って、日枝神社も川越から分祀しました。
    日枝(ひえ)とは、比叡の神のことです。
    (川越は「仏」の喜多院と「神」の日枝神社によって鎮護されていることになります。)
  • 家康は将軍職を秀忠に譲っても大御所(おおごしょ)政治を敷き、天海を補佐官にしました。
  • 家康は、タイの天ぷらがあたり、自分の死に及び、病床に3人をよび遺言を残しました。
    天海もその1人でした。
    それほどまでに天海はたよりにされていました。
  • 天海は、家康の神名を東照大権現(とうしょうだいごんげん)とつけました。
    伊勢神宮の天照大神(あまてらすおおみかみ)を意識し、東国の天照(あまてらす)という意味で東照大権現にしたのでしょう。
    東照大権現とは、家康が東照という神となって仮に(= 権)あらわれている姿ということです。
喜多院内の仙波東照宮
宮(ぐう)とは、人間を神としてまつる神社のことです。天満宮(菅原道真)など。
  • 家康をまつる東照宮は全国に100以上あります。
    このうち、久能山東照宮日光東照宮、および仙波東照宮を3大東照宮とよびます。
    仙波東照宮は、1617年、家康の亡きがらを久能山から日光へ運ぶ途中、わざわざ喜多院へ寄り法要が営まれたことにより建立されました。
    喜多院の敷地内にあります。もと中院があったところです。
  • このようにして、天海は
    家康を、
    幕府を、
    江戸を
    京に並ぶ都にしました。
  • 2代将軍徳川秀忠(ひでただ)ばかりでなく、3代家光(いえみつ)もまた天海を尊敬していました。
  • 1638年に、大火によって喜多院のほとんどが消失しました。
    家光は、江戸城から客殿や書院を移築しました。
    「家光誕生の間」「春日局(かすがのつぼね)化粧の間」がそれです。
    これらは、江戸城の唯一の遺構です。
    春日局は家光の乳母で、家光を将軍に押し立てた立役者です。
  • 天海は、敵をよけるために鬼門に寛永寺を建てました。
    しかし、200数十年後に敵でない徳川御三家から将軍があらわれました。
    15大将軍、徳川慶喜(よしのぶ)です。
  • 天海は、「鬼門から、将軍がでれば、徳川は終わる」と予言していたといわれます。