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大河内(おおこうち)正敏。 理化学研究所の立役者

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大河内(おおこうち)正敏。    理化学研究所の立役者 大河内 正敏 ・大河内(おおこうち)正敏(まさとし)  1878(明治11年)12.06--1952(昭和27)8.29  73歳 理化学研究所の理事長を務めた大河内正敏は、 川越藩の名君・ 松平信綱 の子孫の家系 です。 理化学研究所(理研)の3代目所長を25年間つとめました。 東大工学部卒で、貴族院議員でした。 大正天皇のご学友でした。 明治になり、「松平」を返上し、 大河内(おおこうち)になり ました。 孫には女優の河内桃子がいます。 田中角栄を引き立てました。   理研では、傘下企業60数社を数える理研コンツェルンを形成しました。 理研の黄金期を作り上げた立役者です。 3分でわかる大河内正敏【理化学研究所の立役者】

田沼意次(おきつぐ)。重商主義への転換をはかろうとした先駆者。8月25日没

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田沼意次(おきつぐ)。重商主義への転換をはかろうとした先駆者。8月25日没 田沼 意次  ・1719年9月11日 -  1788年8月25日  68歳 田沼意次は、 重商主義への転換 をはかります。 革新的な経済政策です。 近代日本の先駆者 です。 9代 徳川家重(いえしげ)の小姓(こしょう)から身をおこし、 10代 徳川 家治の側用人(そばようにん)、さらに老中(ろうじゅう) に進みます。 20年間、権勢をふるいます。 商人の 財力で 印旛沼(いんばぬま) や 蝦夷 地(えぞち) の 開拓 を計画します。 ナマコやアワビの 海産 物の 輸出 を 奨励 します。 商工業者に 特権 をあたえ ます。 経済を米中心から 商業中心に移そうする重商主義政策 は、 保守層から大反発を受けます。 江戸時代の 享保の改革、寛政の改革、天保の改革は、 いずれも 重農主義 でした。 保守層にとって、 重商主義は士農工商の社会階層をこわすこと であり、 最下位の「商」を幕府が支援することは、 世の秩序を乱す悪行でした。 このころ、 江戸 の大火、 浅間 山の 噴火、 津波、 地震 などの 災害 がつづき、 天明 の飢饉 がおこって、 百姓一揆 や打ちこわしがはげしくなります。 田沼 意次 は 失脚します。 【14】経済を回す政策を実行した田沼意次 【ショート】 田沼意次 再評価     【田沼意次】賄賂政治家から経済改革者へ 田沼意次「誤解された改革者」 田沼意次  商業と財政の改革

太田道灌。江戸城を築いた武将。Ōta Dōkan。8月25日没 <川越の先人

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太田道灌。江戸城を築いた武将。Ōta Dōkan。8月25日没。<川越の先人 太田道灌 ・1432年~ 1486年8月25日没。54歳。室町時代後期 太田道灌は、 室町時代の武将です。 江戸時代の人ではありません   1457年に江戸城、河越城を築きました。 【受験】1457年  道灌 「石、粉(こな)(1457)にして道灌、江戸城」 【※】「河越」 と 「川越」 「河越」は、江戸時代から「川越」になりました。 道灌は、 築城、軍略、和歌にすぐれ、 主家の扇谷上杉氏(おうぎがやつ うえすぎし)のためにつくしました。 【※】扇谷(おうぎがやつ) 扇のように谷が入りくんだ鎌倉の地形を言います。 30数回いくさをして一度も負けたことがない名将でした。 しかし、主君・上杉定正に殺されました。 【※】扇谷上杉 扇谷上杉は、鎌倉の扇谷(おうぎがやつ)から生まれました。 川越市役所前の太田道灌 川越市役所前に銅像が立っています。 北方からの古河公方(くぼう)の南進を防ぐために、 川越城、岩槻城、江戸城を築きました。 そのころ江戸城は、小田原城の支城でした。   「七重八重  花はさけども  山吹やまぶきの   みのひとつだに  なきぞ悲しき」で有名です。 川越は江戸の母   ・・・・・・・・・・・   【+2】   詩吟 「太田道灌 蓑を借るの図に題す」   孤鞍衝雨叩茅茨    /孤鞍(こあん)  雨を衝いて  茅茨(ぼうし)を叩く 少女爲遺花一枝    /少女  爲に遺(おく)る  花一枝(いっし) 少女不言花不語    /少女は言わず  花語らず 英雄心緒亂如絲    /英雄の心緒(しんしょ)  亂れて絲の如し < 訳 > たった一人馬に乗ってにわか雨の中を進んでいくと 茅葺屋根の小屋があったので、門を叩いた。 出てきた少女は蓑は貸してくれず、花を一枝差し出した。 少女は何も言わない。花は何も語らない。 英雄の心のうちは糸のように乱れた。 太田道灌:江戸...