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大道寺政繁。後北条氏の重臣で、河越城代。「河越衆」軍団を率い、武功を挙げる

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大道寺政繁。後北条氏の重臣で、河越城代。「河越衆」軍団を率い、武功を挙げる。 <川越の先人   ブラーブ(blurb、寸言)    #0011    中大兄皇子 (天智天皇) #0011   【2分】中大兄皇子「新時代・大化!」 天智(てんじ)天皇 中臣鎌足 豪族は貴族に    豪族の土地は国のものに(公地公民) 戸籍をつくり、税(租調庸 そちょうよう)を 大道寺 政繁 ・1533年-- 1590年8月18日  57歳 後北条は、 小田原北条、 戦国北条 ともいわれます。 1491年ー 1590年の100年間 にわたり、 戦国大名として君臨します。 初代・早雲、 2代 氏綱、 3代 氏康、 4代 氏政、 5代 氏直 と続きます。 大道寺家は北条早雲以来の後北条氏の重臣です。 大道寺政繁の祖父、父は、 1546年の河越夜戦 で、上杉勢に勝利します。 これにより太田道灌の築城より90年続いた 上杉氏の河越城支配 は終わりを告げます。   大道寺政繁は3代 氏康、4代 氏政、5代 氏直の3代に仕えます。 「政」の字は氏政から与えられ、政繁と名乗るようになりまし た。 大道寺氏は3代40年間にわたり河越地域を支配 します。 城代と は、城主の補佐役、代理です。 坂戸宿を開き、坂戸発展の礎を築きました。 大道寺政繁は、軍団「河越衆」を率い、主要な合戦で先頭に 立ち、武功を挙げました。 【13分】大道寺政繁 忠義の果ての悲劇 1582年の本能寺の変ののち、 後北条の関東北方支配強化策の一 環として、 河越城の城代を務めながら、 松井田城(群馬県安中 )の城主を兼帯 します。 信州佐久一帯を制圧します。 信州侵 攻中の徳川家康との講和により、松井田城に在城します。 河越城と松山城(現・比企郡吉見町)は 後北条の北関東攻 略の前線基地でした。 1590年の豊臣秀吉の小田原の戦いで、 大道寺政繁は松井田城 を守るも、 前田利家、真田昌幸ららに攻められ降伏します。 その後豊臣方に協力します。 忍城(おしじょう)攻めの道案内 を つとめます。 武蔵の松山城、鉢形城、八王子城の攻略戦に加 わリます。 し...

チンギス・カン。モンゴル帝国の創建者。人類史上、最大規模のモンゴル帝国の基盤を築き上げる。1227年8月25日没

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 チンギス・カン。モンゴル帝国の創建者。人類史上、最大規模のモンゴル帝国の基盤を築き上げる。1227年8月25日没   ブラーブ(blurb、寸言)    #0011    中大兄皇子  (天智天皇) #0011   【2分】中大兄皇子「新時代・大化!」 天智(てんじ)天皇 中臣鎌足 豪族は貴族に    豪族の土地は国のものに(公地公民) 戸籍をつくり、税(租調庸 そちょうよう)を チンギス・カン ・ チンギス・カン   Genghis Khan     1206年 - 1227年8月25日 65歳 モンゴル帝国の統治域 動画 モンゴル帝国の最大版図  チンギス・ハンは、 モンゴル帝国の創建者です。 1219年から中央アジアに大遠征をおこないました。 中国全土もモンゴル帝国の支配下でした。 モンゴルの諸族を一代で統一し、 中国・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服しました。 人類史上、 最大規模の世界帝国モンゴル帝国の基盤を 築き上げました。 モンゴル帝国が、広い地域を支配した目的のひとつは、 東西交易を盛んにすることでした。 【*】 チンギス・カンの孫が、 フビライ・ハン です。 フビライ・ハンは 元を うちたてました。 元王朝の初代皇帝です。 鎌倉時代、日本は2度 元の蒙古からせめられました。 元寇(げんこう)です。 「文永(ぶんえい)の役」、「弘安(こうあん)の役」です。 モンゴルは、ロシアと中国の間に モンゴルの人口は350万です。 【2分】中国の歴史とモンゴル NHK CN 隋→ 唐 → 宋 → 元 JP 古墳→ 奈良 → 平安 → 鎌倉 【16分】【モンゴル帝国の歴史】モンゴル帝国の歴史をわかりやすく解説!

北条政子。源頼朝の死後、尼 将軍として、鎌倉幕府を支える。8月16日没

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  北条政子。源頼朝の死後、尼 将軍として、鎌倉幕府を支える。8月16日没   ブラーブ(blurb、寸言)    #0010    宮内庁(くないちょう) 宮内庁 : 目次     索引   活動     キッズ   : 天皇 伝統文化 皇居・京都御所・正倉院 北条 政子 ・1156年-1225年8月16日鎌倉。69歳 北条 政子は、 鎌倉幕府を守り抜いた日本史上初の女性リーダーです。 鎌倉幕府の初代執権 北条時政の娘です。 北条時政は、鎌倉幕府の創設に尽力します。 源頼朝が 乱にやぶれて 伊豆国に流されているときに結婚 します。 源頼家、 源実朝(さねとも)と 大姫(おおひめ)、 三幡(さんまん。乙姫) を生みます。 源 頼朝の死後は 尼(出家した女性)になって、 政治の実権をにぎり, 尼将軍といわれます。 頼朝の死後、 長男 頼家が将軍になります。 18歳の頼家は、政治を行うには若すぎるので、 政子は、 13人の有力御家人の会議を通し、 政治を行 うことにします。 これに不満をもった頼家が異常な行動をとります。 政子は父 時政と相談して、 頼家を伊豆の修禅寺にとじこめ 次男 実朝を将軍につけます。 長男 頼家が修禅寺で殺され、 次男 実朝も殺されると、 政子は政治の実権を握ります。 こうして源氏の将軍 源頼朝、源頼家、源実朝は、 三代でとだえて しまいます。 幕府と朝廷が戦った承久(じょうきゅう) の乱(1221年) では、 御家人を集めて、 源頼朝の恩を説いて、 東国武士たちに 京都を攻撃させ、大勝利にみちびき ます。 政子の毅然としたよびかけによって、 鎌倉幕府は守られます。 政子は、 3代 実朝の死後は、 事実上の将軍として 幕府を指揮 し ます。 北条政子は、 実家の北条氏と 婚家の源氏(鎌倉幕府) の激しい権力闘争に 巻き込まれ続けた悲劇の母親でした。 政子の目標は、頼朝がつくった鎌倉幕府の土台を守り、支えることでした。 【1分】北条政子の演説  NHK 【8分】[歴史探偵] 悪女か?女傑か?北条政子の人物像に迫る!| NHK ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★...