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岩瀬忠震(ただなり)。徳川幕府で、タウンゼント・ハリスと対等交渉した外交官。Iwase Tadanari 。 8月16日没

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岩瀬忠震(ただなり)。徳川幕府で、 タウンゼント・ ハリスと対等交渉した外交官。Iwase Tadanari 。 8月16日没 岩瀬忠震 (ただなり)  /  wp ・1818年12月18日 ー  1861年8月16日没。44歳 1857年、タウンゼント・ハリスが江戸にやってきて、通商条約を結ぶことを要求します。 【※】ペリーの来航は1853年です。 ハリスとの交渉にあたったのが、 徳川幕府の岩瀬忠震(ただなり)でした。  岩瀬忠震は、30代の若さで目付け(監視役)に抜擢されました。         ・講武所(のちの陸軍所)、     ・蕃書調所(ばんしょしらべしょ、のちの東京大学)の開設、     ・品川の砲台の建設、  にかかわリました。 長崎に     ・海軍伝習所(のちの海軍) をつくりました。 勝海舟や小栗忠順(ただまさ)をアメリカに送りました。   岩瀬忠震(ただなり)は、外務官僚のトップ でした。 外国文明を吸収し、貿易により西洋に対抗しようという考えでした。 横浜開港を提案しました。 岩瀬忠震は、 林大学頭(はやし だいがくのかみ)を叔父にもち、叔父のやってきたことを見てきました。           林大学頭は、林羅山の子孫で、学問所(湯島聖堂→昌平坂学問所→ 東京大学)のトップを占めていました。 伊達政宗の子孫でもありました。 情報収集能力のあった日本は、 アヘン戦争、アロー戦争で 清が亡国の状態にあることがわかっていました。  岩瀬忠震(ただなり)はハリスと条約の草案をまとめました。 しかし調印を前に水戸斉昭(なりあきら)などの攘夷派が激しく抵抗しました。 老中・堀田正睦(まさよし)と岩瀬忠震(ただなり)は、 孝明天皇の許可を得れば、攘夷派を抑えられると考え、孝明天皇に謁見しました。 答えはノーでした。 勅許の失敗で、堀田正睦(まさよし)は失脚し、 大老・井伊直弼(なおすけ)が実権を握...

太 安万侶(おお の やすまろ)。『古事記』の編集者。723年8月11日没

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 太 安万侶(おお  の やすまろ)。『古事記』の編集者。723年8月11日没  太(おお)の 安万侶  ・生年不詳~723年8月11日没 古事記は、太 安万侶(おお の やすまろ)が、 稗田阿礼(ひえだ の あれ)が暗唱していた神話・伝承を、記録編集し、 書物にしたものです。 ※ 古事記 古事記は、日本最古の歴史書です。 天武天皇の命令で編集が進められ、 奈良時代初期 712年に完成 しました。文学性の高い記録です。 1979年に 太 安万侶(おお の やすまろ)の墓が発見されました。 古事記の超簡略あらすじ     桑原政則 ・・・・・・・・・・・ 太 安万侶   奈良県庁   ブラーブ(blurb、寸言) #0007     神武(じんむ)天皇は、日本の初代天皇 神武天皇は、日本の初代天皇 『日本書紀』・『古事記』によれば 天照大御神(あまてらす おおみかみ)の5代後の子孫 奈良盆地一帯を征服し、 橿原宮 (かしはらのみや) に遷都して、 日本国を建国 橿原神宮 【1分】紀元2600年記念観兵式 NHK 神武天皇の即位を元年とする「皇紀」 1940年(昭和15年)は紀元2600年 盛大なパレードが

佐久間象山。開国論をとなえる。勝海舟、吉田松陰の師。Sakuma Shōzan。8月12日没

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佐久間象山。開国論をとなえる。勝海舟、吉田松陰の師。Sakuma Shōzan。8月12日没 佐久間象山 ・1811年3月22日。長野市松代(まつしろ)~1864年8月12日暗殺。53歳、京都 佐久間象山(しょうざん)は、 長野市の松代藩の下級武士の家に生まれます。 松代藩 地図 城主に見初められ修養します。  1842年、幕府の老中となった藩主・真田幸貫(ゆきつら)に 「海防八策」を上書します。 【※】真田幸貫(ゆきつら) 8代 徳川吉宗の曾孫で、江戸後期の名君。 佐久間象山は、対外的危機を克服するためは、 西洋の科学技術を摂取し、 国力を充実 することが必要だと説きました。     ・大砲をつくりました。     ・電気治療器を考案しました。     ・写真機をつくりました。     ・電信機をつくりました。     ・オランダ医術を習得しました。 1851年江戸で塾を開き、     勝海舟、     坂本龍馬、     吉田松陰、     小林虎三郎( 「米百俵」の精神 - 長岡市 )、 らを教えました。  1852年、42歳で 勝海舟の妹をめとり ました。 1853年の ペリーの来航を機に 開国論をとなえ 、 時代に大きな影響をあたえました。 【※】 ペリーと 佐久間象山の出会い ペリーは、横浜で松代藩の陣屋を通りかかった時、 佐久間象山を見て思わず会釈してしまいます。 風采が堂々として、異相だったからです。 佐久間象山は、後の 徳川慶喜(よしのぶ)らに西洋事情を説く など、 要人に啓蒙活動を続けました。  しかし、1854年には、 吉田松陰に暗に密航を進めたとして、 松代に蟄居(ちっきょ)を命ぜられました。 1864年、佐久間象山は、従者4人を連れ、 京を馬で進んでいました。 ふところには開国の草案を忍ばせていました。 木屋町(きやちょう)通りで、 2人の攘夷派におそわれ斬殺(ざんさつ)されました。 象山は天才意識が強く、大変な自信家でした。 技術があり、 語学をあやつり、 内外...