【武蔵観研通信】 280号:2020年3月27日

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★  【武蔵観研通信】280号:2020年3月27日  
musashikanken@gmail.com          【 編集発行 桑原政則 】
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★ 川越、埼玉
❖ 埼玉県庁  ❖ 川越市役所新着  動画 議会3、6、9、12月
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★ 人物など 
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★全般:    世界地図 日本地図  


〇 川越の先人
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★【 2020年  令和2年 スケジュール 日本・世界】
***       コロナウイルス。No 五輪。令和恐慌
11/3    アメリカ大統領選



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┃後記┃ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
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〇 時事
・アメリカ  現金給付13万円。起業支援、失業保険も。  決断力あり≒戦争
・東京OlympicはTokyo 2020から Tokyo2020s へ。延期へ。
・埼玉県  東京への外出自粛を
・Japan tourismは、stormy year(嵐の都市)へ。令和恐慌


〇 ことば
新コロ    新型コロナウイルス
オーバーシュート   overchute≒ 感染爆発
ロックダウン   lockdown ≒都市封鎖
クラスター  cluster≒集団感染


〇 名言
堀口大學(詩人)


「雨の日は、雨を愛そう。風の日は、風を好もう。晴れた日は、散歩しよう。
貧しくば、心に富もう。」
<しばし  あるがままを  うけいれましょう>

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★【 武蔵観研 スケジュール 湯遊ランド】
  4/21(火)18:30 例会 
  5/19(火)18:30 武蔵観研  総会
  6/16(火)18:30 例会 
  7/21(火)18:30 川越みがき・暑気払いの会  
川合市長。粂原住職。他
  9/15(火)18:30 例会 

11/17(火)18:30 川越みがき・みのりの会
  (予定)氷川神社 山田宮司


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忽滑谷 快天(ぬかりや かいてん)。 駒沢大学初代学長、禅宗を内外に広める。Nukariya Kaiten <川越の先人

忽滑谷 快天(ぬかりや かいてん)。 駒沢大学初代学長、禅宗を内外に広める。<川越の先人

・1867年12月26日。東村山市~
1934年7月11日没。68歳

忽滑谷 快天 画像


忽滑谷 快天(ぬかりや かいてん)は、10歳の時川越・豊田本(とよだほん)の善長寺【地図。水上公園ちかく】で出家しました。
18歳から3年間曹洞宗大学林(学問所)で学びました。
その間、養寿院を経て、古谷上(ふるやうえ)の善仲寺で僧生活を続けました。

その後、旧制一高を経て、慶応大学に入学し、27歳で1893年卒業しました。
1894年、曹洞宗高等中学林の教授に就任します。。
翌1895年28歳で、南古谷の蓮光寺 【地図。新河岸川沿い】の住職になりました。


忽滑谷快天は英語に堪能で、1897年30歳で
”Principles of practice and Enlightenment of the Soto Sect”(『曹洞宗の実践と啓蒙の原理』)を出版しました。
新渡戸稲造の”Bushido”より2年速い出版でした。


1911年より3年間欧米を歴訪します。
1913  ”Zen Buddhism: The Religion of the Samurai”(『禅宗』) を刊行し、
禅宗を英語で欧米に紹介しました。


1925年 大著『禅学思想史』を出版し、 東大文学博士となります。
1925年 駒沢大学初代学長に就任しました。1934年までつとめます。

イスラム研究や陽明学研究にも没頭しました。

弟子は、中国、台湾、韓国などにおよび、
胡適や鈴木大拙も師に学び「忽滑谷 仏教学派」を形成しました。

墓は連光寺にあります。

【※】忽滑谷(ぬかりや )の名字
武蔵の有名氏族です。太平記の怒借屋と記されています。
埼玉県に多く、400件超を数えます。

奥貫友山。大水害で農民を救う。川越・南古谷の慈善家 <川越の先人

奥貫友山。大水害で農民を救う。川越・南古谷の慈善家     <川越の先人

・1708年~
1787年12月19日没。

奥貫友山(おくぬき ゆうざん)は、川越・南古谷の久下戸(くげど)に生まれました。久下戸(くげど)はJR南古谷駅の南方にあります。【地図】  奥貫家は久下戸村の名主を代々つとめました。友山は奥貫家の5代目を継ぎました。

1742年に関東に江戸時代最大の大水害がおそいました。堤防の決壊も百カ所近くにおよびました。低地の久下戸村では、床上浸水となり、死者も出ました。奥貫友山は、率先して救助にあたりました。自己私財を農民に与え、1万6000人の命を救いました。その後も自らの田畑を質入れし、食糧を買い続け窮民を救援し続けました。最終的には10万人以上が救われました。

奥貫友山は、若くして学問を好み、儒学や和歌を学びました。漢学塾・寺子屋を開き、子弟教育にも熱心でした。

奥貫友山は、戦前の教科書にも取り上げられました。



紙芝居  南古谷地区の偉人、奥貫友山(おくぬき ゆうざん) 天野由貴(南古谷中)

西行(さいぎょう)。平安末期の歌人。西行⇒ 宗祇⇒ 芭蕉と続く漂泊の歌人。Saigyō。3月23日没

西行(さいぎょう)。平安末期の歌人。西行⇒ 宗祇⇒ 芭蕉と続く漂泊の歌人。Saigyō。3月23日没

 西行法師
♪♪~ 嘆けとて月やはものを思はする かこちがほなるわが涙かな     西行法師
<「嘆け」と言って月が私に物思いをさせるの。まさかそんなことはないのだが、月にあてつけるように流れる私の涙だよ>

・1118年。京都~1190年3月23日没。河内

西行(さいぎょう)は、平安末期から鎌倉初期にかけて活躍しました。
鳥羽上皇に仕え、のちに出家しました。歌人でした。
【※】西行とは、西方浄土へ行くです。

1186年には、鎌倉で源頼朝に面会したことが『吾妻鏡』(あずまかがみ)に記されていいます。
【※】 吾妻鏡:   鎌倉幕府の歴史書、武家政権の最初の記録です。吾妻とは東国のことです。

頼朝からいただいた純銀の猫を、通りすがりの子供に与えてしまいました。


西行⇒ 宗祇⇒ 芭蕉  は、漂泊の歌人です。

【※】西行⇒ 宗祇⇒ 芭蕉
西行(1118年生まれ)の跡を、
    連歌の宗祇(1421年生まれ)が追い、
    そのあとを俳句の芭蕉( 1644年生まれ)が
追いかけました。



♪♪~ 心なき 身にもあはれは しられけり 鴫(しぎ)立たつ沢の 秋の夕ゆふぐれ
出家の身であっても、しみじみとした趣は感じられるものだなあ。鴫(しぎ)が飛び立つ沢の夕暮れよ。

伊勢神宮にて:
♪♪~ なにごとの おはしますをば しらねども かたじけなさに 淚なみだこぼるる  
<どんな方がいらっしゃるかは知らないけれども、恐れ多く、そしてありがたい気持ちで涙がこぼれてきます。

♪♪~ 願はくは  花の下にて  春死なん そのきさらぎの望月のころ
<願うことには、桜の花の下で、死にたいです。2月(お釈迦様のなくなった)の滿月のころに。>


・西行は平清盛と同年の生まれです。
第74代鳥羽天皇を平清盛などと守りました。


いずれ

藤原秀衡と姻戚

島崎藤村「椰子の実」 。 <川越の先人

島崎藤村「椰子の実」 。   <川越の先人

島崎藤村「椰子の実」  NHK【+9】 内容の説明も


「椰子の実」 は、愛知県の渥美半島・伊良湖(いらご)岬に滞在した友人の柳田國男が椰子の実の話を藤村にしたものです。

藤村が29歳の時「椰子の実」をつくりました。


「椰子の実」 

名も知らぬ遠き島より  流れ寄る椰子の実一つ

故郷(ふるさと)の岸を離れて
 汝(なれ)はそも波に幾月 旧(もと)の木は生(お)いや茂れる
 枝はなお影をやなせる
我もまた渚を枕
 孤身(ひとりみ)の 浮寝(うきね)の旅ぞ
実をとりて胸にあつれば
 新たなり流離(りゅうり)の憂
海の日の沈むを見れば
 激(たぎ)り落つ異郷の涙 思いやる八重の汐々
 いずれの日にか故国(くに)に帰らん


島崎藤村 <川越の先人


イザナキとイザナミ。三貴神(アマテラス、ツキヨミ、スサノオ) <古事記めぐり

イザナキとイザナミ。三貴神(アマテラス、ツキヨミ、スサノオ)    古事記めぐり

きくドラ    イザナキとイザナミ      <きくドラ   【+12】
    「古事記 ー三貴神(さんきしん)」 をクリック

イザナキとイザナミ  の  国産み    神産み
  • 「イザナキ」は「キ」と読むのが普通。
  • イザナとは「いざなう(誘う)」こと。
  • 「キ」は男性を、「ミ」は女性を示す。

三貴神(アマテラス、ツキヨミ、スサノオ)
  • イザナキがヨミ(黄泉)のけがれを落としたときに、最後に生まれ落ちた三柱の神。
  • イザナキが自分が生んだ神々の中で最も貴いとしたところからこの名がつきました。
  • イザナキはカミですから、ひとりで子供をうみました。
  • アマテラスは左目から。【cf.】古くは、左は右よりも上。
  • ヨミ(黄泉)は、「闇」からか。


三貴神の誕生【CGS ねずさん 古事記のセカイ 第三章 11話】 【+13】

【武蔵観研通信】279号:2020年3月12日
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★ 川越、埼玉
❖ 埼玉県庁  ❖ 川越市役所新着  動画 議会3、6、9、12月
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★ 人物など 
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★全般:    世界地図 日本地図  
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★【 2020年  令和2年 スケジュール 日本・世界】
7/9  川越市内、聖火ランナー
7/22ー8/9  東京オリパラ
11/3    アメリカ大統領選
★【 武蔵観研 スケジュール 湯遊ランド】
  4/21(火)18:30 例会 
  5/19(火)18:30 武蔵観研  総会
  6/16(火)18:30 例会 
  7/21(火)18:30 川越みがき:暑気払いの会   川合市長 粂原住職
  9/15(火)18:30 例会 
11/17(火)18:30 川越みがき:みのりの会  (予定)氷川神社 山田宮司


【後記】
〇 インド    イスラム教は少数派だが1.8億人


インドではイスラム教徒は少数派です。
インド政府は、隣国からの不法移民に市民権を与えようとしました。
しかし、イスラム教徒を除きました。
これにインドのイスラム教徒が反発し、死者32人を出しました。 /2020年2月


インドには1.8億のイスラム教徒がいます。
インド(ヒンドゥー教徒)とパキスタン(イスラム教徒)を分けるときに、
インドに残ったイスラム教徒が今では1.8億です。


アジアには、中東よりも多くのムスリムがいます。
インドネシアには2億のムスリムがいます。世界一です。


〇 
「忙しい時こそ  冷静に」
家事など:
1. 腹式呼吸をします。深~く息をすって、ゆ~っくりとはき出します。
2. やること(仕事)を箇条書きにします。
3. 仕事を簡単な作業に分解し、ニコニコ、コツコツやります。

天武天皇。『古事記』、『日本書紀』を編纂。白村江の戦い。日本の原型をつくる

天武天皇。『古事記』と『日本書紀』を編纂。白村江の戦い。日本の原型をつくる
天武天皇 
・?~ 686年10月1日 崩御


673年天武天皇(=大海人皇子 おおあまのみこ)は、 第40代天皇になります。
「天皇」、「日本」という称号をはじめて使います。

663年の白村江(はくそんこう)の戦いで、
日本・百済(くだら)遺民連合軍は 唐・新羅連合軍に大敗します。
日本は3万の兵を百済に送ります。
日本は亡国の危機におちいります。


【受験】673年 天武即位
<673年、胸騒ぎ、終え、天武即位>
前年672年天武は、壬申(じんしん)の乱で勝利し、即位します。

天武天皇は、律令体制の基礎を定めます。
この時代に、日本の
    統治機構、
    宗教、歴史、
『古事記』『日本書紀』の編纂 「天皇」「日本」を使用
   富本銭(ふほんせん。最古の花柄)の鋳造 
文化の原型が
作られます。 重要な時代です。


<大君(おおきみ)は神にしませば、 天雲の雷(いかづち)の上に 廬(いほ)りせるかも> 柿本人麻呂
大君(おほきみ)は神でいらっしるので、雷(いかづち)の上に仮宮(かりみや)をお作りになっていらっしゃる


天武天皇は、『古事記』と『日本書紀』を編集します。


『古事記』は、日本史を物語口調で説明しています。
古事記とは、
    日本最古の歴史書で、
    したもの」です。
天武天皇がつくりあげた「作品」、物語です。
 

いっぽう、『日本書紀』は、大和朝廷、天皇家の正当性をのべた「史料集」です。


天武天皇は新嘗祭(にいなめさい)や主要な宮廷儀式の多くを
つくったり、まとめます。



伊勢神宮を特別に重視します。
を伊勢神宮に送り、斎王(さいおう)にしました。
斎王とは、天皇にかわって伊勢神宮の天照大神にお仕えする役です。

2017年にも、天皇の皇女が伊勢神宮の斎王となっています。
【※】黒田清子 斎王
黒田清子(さやこ)元内親王は、 明仁 上皇と美智子 上皇后の皇女で、
徳仁(なるひと)第126代天皇および秋篠宮 皇嗣の妹にあたります。


伊勢神宮は、20年ごとに社殿を新しく建て直します。
この式年遷宮は、天武天皇の定めにより690年に第1回が行われました。

その他、天武天皇は、神道、仏教、道教に通じ、保護しました。


天武天皇 奈良を駆け抜けた激動の生涯 奈良県
        奈良偉人伝:天武天皇。持統天皇。藤原不比等。行基。太 安万侶
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【※】【
白村江(はくそんこう)の戦い


http://sky.geocities.jp/jyunpujyunpu/hakusonkou002b/hakusonkou002b.htm

日本は、663年初めての対外戦争・白村江の戦いで大敗します。
相手は、唐・新羅(しらぎ)連合軍でした。
日本は国内がバラバラのまま戦い、負けました。


唐・新羅(しらぎ)連合軍が日本に攻め込んで来たら、 国が滅びます。
国をまとめ、中央集権化をはかることが必要でした。
そのためには、国家神話が必要でした。

乱立状態の各地の神話をまとめたのが古事記です。


天皇=天武    この国=日本


【関係年表】

663  白村江の戦い。日本完敗。


672  壬申(じんしん)の乱。天武天皇が天智天皇の子を破ります。
       【受験】672「胸に(672)グサリと壬申の乱」

712  古事記完成。
          【受験】712 「名、人に(712)広まる古事記でき」

 【13分】壬申の乱と天武天皇   
  次回






額田王 天智天皇・天武天皇のはざまにあった女性 【+10】






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大海人皇子(おおあまのおうじ): 天武天皇の即位前の名前


川越藩の初代藩主は、酒井重忠。なぜ印象が薄い?

川越藩の初代藩主は、酒井重忠。なぜ印象が薄い?

川越の殿様は、地元民には印象が薄いです。


それは、川越藩主は、江戸定府(じょうふ。江戸に常住)が多く、

藩政に力を入れる余裕がなかったからです。 

また転封も頻繁で、川越藩には8家21藩主が登場します。


しかし他藩では、たとえば三重の津藩では、ほぼ藤堂家のみです。



川越藩の初代藩主は、酒井重忠です。

重忠は、愛知県三河に生まれました。
若い頃から父と同様に徳川家康に仕え、
姉川や長久手の合戦にも参加しました。

1582年、本能寺の変で織田信長が死去した時、
伊賀越をおこなった家康一行を伊勢で船で出迎え、安全を確保しました。

また、豊臣秀吉が北条氏の小田原を攻めた時には、
徳川家康軍の先鋒として活躍しました。


川越城は、前田利家や上杉景勝らに攻められかけましたが
城将・大道寺直繁(政繁の長男)がいち早く降伏したので、戦場にはなりませんでした。

1590年に徳川家康は、豊臣秀吉により、関東に移封されました。
酒井重忠は要衝・川越に1万石の所領を与えられ
大名となりました。
1万石以上が大名と名乗ることができました。

この1590年に川越藩は誕生します。



酒井重忠は、1600年の関ヶ原の戦いにも参加し、
戦功により、川越藩の分領・厩橋(まやばし。のち前橋)に
3万余石の所領を与えられ、厩橋藩初代藩主にもなりました。