川越、比企の女傑は、乳母(めのと)の比企尼(ひきのあま)と春日局(かすがのつぼね)です。
昔の乳母は、母以上にやさしく、強く、また財力もありました。
源頼朝は、池禅尼や上西門院、乳母である比企尼のように多くの女性に救われて生き延びた人物のようです。
本稿では、比企尼(ひきのあま)のネットワークをとりあげます。
【比企尼(ひきのあま)】
比企尼(ひきのあま)は、夫が源義朝(源頼朝の父)の御家人でした。
夫婦で京で源頼朝の父母代わりになりました。
頼朝が伊豆に配流になったとき、比企郡を拝領し、下向しました。
比企地方は鉄道馬米が算出し豊かだった。比企一族は良質な家風であり財力もありました。
源頼朝が33歳で平家打倒の旗揚げまで20年間を支えました。
比企尼(ひきのあま)は、3女を設けます。男子には恵まれず、兄弟の子・比企能員(ひき よしかず) を養子にします。
【安達盛長は比企尼の長女(丹後の局)の夫】
長女(丹後の局)の夫は、安達盛長です。
安達盛長は、流人(るにん)の頼朝にずっと従ってきました。疑り深い頼朝が生涯頼りとした心の友です。安達盛長は、京に知人が多く京都の情勢を頼朝に伝えるパイプ役でした。
後に頼朝は、私用で安達盛長の屋敷をしばしば訪れました。
1180年8月の頼朝挙兵のときは、関東武士団の取りまとめに活躍しました。
石橋山の合戦では、頼朝と安房に逃れ、下総(しもうさ)の大豪族 千葉常胤(ちばのつねたね)また上総(かずさ)の上総広常(かずさひろつね)を味方に引き入れました。
安達盛長は頼朝と北条政子の間を取り持ったと言われています。
頼朝が亡くなると安達盛長は出家しました。
頼朝の嫡男(ちゃくなん) 源頼家が2代将軍となると、13人の合議制の1人となり幕府の政治に参加しました。
秋に起きた梶原景時(かじわらのかげとき)の変では、梶原景時をきびしく弾劾(だんがい)しました。
【河越重頼は比企尼の次女の夫 】
比企尼の次女(河越尼)の夫は、 河越重頼です。
河越重頼は、頼朝の重臣で、娘は義経の妻です。
河越氏は、伊豆に流されていた源頼朝が挙兵すると、有力な家臣となりました。
河越氏は、桓武平氏(かんむへいし)の流れをくむ秩父氏の一族です。
河越氏の先祖は、皇族で臣籍降下により、武蔵国最大の勢力になりました。
臣籍降下(しんせきこうか)は、皇族が、平氏や源氏などの姓を与えられ臣下に降りることです。皇室の財政を守るためでした。桓武天皇は、100名余りの者に、平氏姓をあたえて、臣籍降下を行ないました。
子孫は、身一つで現地に下り、現地有力者の娘と結婚し、妻の実家の経済力・政治力に依存して生活します。
河越氏は、川越に移り住み、地名から河越を名乗り活躍しました。
(「河越」は江戸時代から「川越」になりました。)
河越館に居を構えました。
河越重頼の妻は、比企尼の次女で、源頼朝の嫡男 頼家の乳母でした。
比企尼、比企尼の次女、母娘2代にわたって、源家の乳母でした。
比企尼は源頼朝を、河越重頼の妻は源頼朝の嫡男 頼家の乳母でした。
源頼朝が挙兵した当初、河越重頼は、畠山重忠、江戸重長らと横須賀の衣笠城を攻略しました。
頼朝は、川越のある武蔵一帯を検地し、広大な肥沃な平野であることから重要視します。
武蔵の国は武士の発祥の地でもあります。
このとき、頼朝は都幾川村の慈光寺に銅鐘を奉納しています。
河越重頼は、源頼朝に重用されました。
河越重頼は、源頼朝の命令で17歳の娘を義経の妻にさしだした。
後年、頼朝は、義経と仲違いしました。
すると、河越重頼は、義経の縁者ということで、所領を没収され、命までも奪われました。
河越重頼の墓は、川越の養寿院にあります。
河越重頼、源義経、京姫の供養塔 ・常楽寺〕
河越重頼のあとの盟主は 畠山重忠となります。
【伊東祐清は比企尼の三女の夫】
比企尼の三女の夫は、 伊東祐清(すけきよ、伊東祐親の次男)です。
まずは、伊東祐清の父の伊東祐親(すけちか)について。
伊東祐親は、伊豆の伊東に勢力を持つ豪族です。
平清盛から伊豆に流された源頼朝の監視を任されます。
伊東祐親が京都に長期出張している間に、娘の八重姫が源頼朝の子をもうけてしまいました。祐親は清盛に疑われる事を恐れ、娘の子川に沈めて殺害し、頼朝まで殺そうとしました。
伊東祐親の息子の伊東祐清は、
比企尼の三女を妻にしています。
比企尼は源頼朝の乳母です。
伊東祐清から事実を打ち明けられた頼朝は、北条時政にかくまわれて事なきを得ます。
北条時政は伊東祐親(すけちか)の姻族です。しかし以後、両者の関係は修復不可能になりました。
【 比企能員は比企尼の養子】
比企尼は、男児に恵まれなかったので、兄弟の子を養子にもらいました。それが比企能員
比企能員(ひき よしかず)です。 比企能員は、源頼朝の側近くで使えていました。
平氏追討の奥州合戦では、北陸道大将軍として出羽国を平定しました。
また東山道大将軍として出陣しました。のちに上野、信濃の守護を務めました。守護になるのは武士のあこがれでした。
源頼朝と北条政子のあいだに源頼家が生まれ、比企能員は乳母兄となりました。
比企能員の娘は、若狭局です。
若狭局は、源頼朝の子 頼家の正室です。
頼家と若狭局には、一幡(いちまん)が誕生しています。
2代将軍となる源頼家は、比企能員や比企尼の縁者に囲まれて育ちました。
ある時比企能員が、2代将軍 源頼家に北条時政への不満を訴え、2代将軍 源頼家は北条時政追討を命じました。
これを知った北条時政は、自邸に比企能員を招き、殺害しました。
源頼家は、修善寺に幽閉されました。
【島津忠久は源頼朝と比企尼の長女の子】
島津忠久は、源頼朝と比企尼の長女 丹後の局の間に生まれたとされています。
比企氏の長女は、島津忠久を生み、薩摩の島津氏の祖となりました。
島津忠久は鎌倉で生活しますが、比企氏の縁者であったことで、子孫は薩摩で暮らすことになりました。
島津家には「島津忠久は源頼朝の子供」という言い伝えがあります。
島津忠久が建てた鹿児島の花尾(はなお)神社は、源頼朝と忠久の母を祀っています。
箱根山神社、伊豆山神社をともに崇敬していました。
幕府有事の「いざ、鎌倉!」には、武士は鎌倉に馳せ参じました。
第2グループは房総半島の安房上総下総です。
第3グループは北関東の上野下野です。
安房(あわ)、上総(かずさ)、下総(しもうさ)です。
その頃、流路も今とは違う大きな利根川が、鎌倉との交通をはばんでいました。
鎌倉から見れば、川向うのアウェイで異国でした。
第3グループは、北関東で
第2、第3グループからは、便が悪いためか有力武将は出ませんでした。
源頼朝をあがめていた徳川家康は、江戸を都にしてから、
駿河(静岡市)を隠居所にしました。
#3 中世は鎌倉から。日本史の5区分:原始、古代、中世、近世、近現代
日本史は、原始、古代、中世、近世、近現代に5区分されます。
原始時代(紀元前3千年まで)には、 先史時代、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、邪馬台国が入ります。
日本史では、史料がない原始時代はあつかわないことがあります。 考古学の分野になります。
古代は、 大和時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代です。 大和ー飛鳥ー奈良ー平安で、 250年から1185年まで、 900年続きました。
中世は、鎌倉時代から始まります。 鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、戦国時代、安土桃山時代が入ります。 鎌倉ー南北朝ー室町ー戦国ー安土桃山で、 1185年から1603年まで、 400年続きました。 日本の中世は世界一文献が多い分野です。 鎌倉時代から徳川時代までが、 武士が支配した700年間の封建時代です。
近世は、 江戸幕府の創立(1603年)から明治維新の東京遷都(1869 年)までです。 400年続きました。
近現代は、明治ー大正ー昭和ー令和です。 1868年から150年以上の期間です。
第二次世界大戦終了の 1945年(昭和20年)からを、とくに「現代」とする場合があります。
イギリス史、フランス史、ドイツ史には、古代はなく、中世から始まります。
cf. 立正大学図書館
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#2 日本の厚い中間層は、鎌倉時代に源が
日本の厚い中間層は鎌倉時代に源を発します。
日本の歴史が多様であることに驚嘆していました。
源頼朝 1147年5月9日~1199年2月9日。53歳 |
鎌倉時代に、朝廷から武家に政権が移行しました。
武家政治は、鎌倉幕府の成立から明治維新にいたるまで700年間続きます。
この武家支配時代を封建時代とよびます。
正義、誠実、慈愛、名誉の武士道精神、行動基準がはぐくまれました。
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