青森、岩手に分断された南部藩



新渡戸稲造の父は、南部藩主の命で青森県十和田湖の新田開発に打ち込みました。
青森県十和田湖も、岩手県盛岡市ももとは同じ南部藩でした。

南部藩が青森と岩手に分断されたのは、幕末の奥羽越列藩同盟(おううえつ れっぱんどうめい)に起因します。

南部藩は青森県、岩手県に分断
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幕末、長州は会津から痛い目にあわされました。

幕府の命令で京都の治安を担当した会津藩にねらわれ、1864年の蛤御門の戦いでは京から追い出されました。
会津藩配下の新撰組にもつけねらわれました。

1868年、体制が変わり、維新政府は東北諸藩に会津征討を命じました。
東北諸藩は会津を救うために嘆願書を出しました。

しかし却下されたので、東北25藩と長岡藩など6藩は奥羽越列藩同盟を結成し闘いましたが、破れました。

のちに仙台藩と山形の米沢藩は戦いが不利と見るや、列藩の主導者でしたが、降伏しました。

南部藩は仙台・伊達藩への義理で加盟しただけなのに、会津藩と共に最大の被害者に仕立て上げられ、貧窮の道を歩まされました。

この戊辰戦争で会津を破った長州人は傲岸にも「白河以北、一山百文」と言い放ちました。

明治政府はトーホクを無視し続けました。

トーホクを飛び越えて北海道開拓に意欲を燃やしました。
トーホクを無視し朝鮮経営に乗り出しました。
さらに日本のトーホクではなく中国の東北の経営に乗り出しました。

政府がトーホクのためにしたことは、東北大学をつくっただけでした。
<*  原敬は、トーホクを侮蔑嘲笑した薩長出身者への反発から号を「一山」と称しました。
設立が絶望的だった東北大学が日の目を見たのは、内務大臣だった原敬の尽力によるものでした。 >

南部藩は青森県と岩手県に、伊達藩は宮城県と岩手県に分断されました。
<*  南部藩は盛岡県になるはずでした。>

このいやがらせのために、岩手県は南部藩と伊達藩の両方をかかえ込み、今に至るも分断政治の犠牲になっています。

南部藩域と伊達藩域は歴史文化ことばの面でほぼ異国状態です。

南部藩のもてなし料理は蕎麦、お茶うけはセンベイで人は朴訥(ぼくとつ)です。

伊達藩は餅でもてなし、羊羹をお茶うけにし、人は大風呂敷といわれています。

政府が青森、山形、新潟を通る日本海新幹線をつくらないのも、日本海高速道路をつくらないのも、奥羽越列藩同盟へのうらみによるものと思う地元民はおおいようです。
<* 太平洋側の新幹線は北海道への通過経路として建設されました。>

青森県の八戸市、十和田市を含む南部地域ではいまだに新聞、テレビなど岩手(南部藩)ものを好みます。