2014/01/27

天海。徳川家康の知恵袋。11月13日没 

天海。徳川家康の知恵袋。11月13日没     

川越 喜多院の天海僧正像
川越の喜多院  1612年、喜多院、関東天台宗の本山に



















天海は、徳川家康を東照大権現(とうしょう だいごんげん)という神にし、
260年の泰平の世を築きます。

※権現(ごんげん)とは  
権現とは、「仮に(= 権)、この世に現れている神」のことです。

天海は、
伊勢神宮の天照大神(あまてらす おおみかみ)を念頭に、
徳川家康が東国の天照(あまてらす)となることにし、
「東照大権現」にします。

東照大権現とは、
    家康が東照の神となって
    仮に(=権)この世にあらわれている姿です。

パクス・トクガワーナ(Pax Tokugawana、ラテン語)260年の
長期政権の元を築きます。

パクス・トクガワーナはローマ帝国の平和(Pax Romana)にちなみます。
200年続きました。前27年から180年までです。

天海は
        2代 秀忠、
        3代 家光の
家庭教師役、宗教顧問

も27年間つとめました。


天海は75歳で、家康68歳と対面しました。
ご両人とも、当時では考えられないくらいの長命でした。
天海は、徳川家康に1616年まで7年間仕えました。

天海を徳川家康は川越の喜多院に6回訪れています。


天海は、短気で好色な家光に
長寿の秘訣を教えました。
   < 気は長く、務めはかたく、色薄く、食細くして、心広かれ 
*
天海僧正は、
会津の武士の生まれです。
生まれつき頑健で、身長も180センチ以上あったようです。
108歳まで生きました。

毎日、実行していたことがあります。

「勤行(ごんぎょう)、歩く、粗食、学習」 です。
    ・朝夕、大声での勤行(ごんぎょう):
        大声での発声が健康の元でした。

「歩く」
    ・日本中を徒歩で巡っています。

・「粗食」: 
        ・少食粗食が当たり前でした。

・「学習」:
     ・毎日の学習で脳を活性化します。

   50歳近くまで留学僧として学びの旅を続けます。
   その後も108歳まで学習を続行します。


比叡山を再興しました。  
比叡山中興の祖・天海

日光山 輪王寺を開基しました。  

上野 寛永寺を開山しました。  

川越・喜多院の三興の祖です。


川越藩を特別の藩にし、

    結果、幕府の2人の大老、6人の老中が
川越藩主と
なりました。

生地・会津美里町の天海僧正の肖像画
やさしい慈(いつく)しむ眼  >慈眼大師    

















江戸を守る川越関連の人物、寺社
江戸を守る5寺社は川越が関係
江戸城は、5寺社によって守られていました。
江戸を守る寺社には、天海と川越が何らかの意味で関係しています。



    天海は健脚でした。
    日本中を徒歩で巡っています。


慈眼大師 天海。南光坊 天海

日光の慈眼堂



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天海年表
  • 1536年(天文5年)? -1643年(寛永20年)10月2日    会津美里町出身    出自は相模国の三浦一族の蘆名(あしな)氏
  • 蘆名盛氏の切望で若松城の稲荷堂に10年ほど在住
  • 1560年から4年間、足利学校で、儒教、易学、天文学、軍学を学ぶ
  • 1571年、比叡山が織田信長により焼き討ちにあい、武田信玄の申し出で甲斐に移住
  • 1588年、川越 喜多院に移り、天海を名乗る
  • 1590年、徳川家康と初対面天海は家康の参謀として朝廷との交渉の役割を担う
  • 1607年72歳。比叡山の南光坊に住して、天台学を学び、信長の焼き討ち後の延暦寺再興に関わる。延暦寺中興の祖と言われる功績をあげる
  • 奈良で法相、三論、禅学を学ぶ
  • 1610年75歳、駿府にて家康のために天台論議を行う。
  • 1612年、川越の喜多院を再建し、関東天台の本山とする
  • 1613年、家康より日光山貫主を拝命、本坊・光明院を再興
  • 1614年、大坂冬の陣
  • 1616年81歳、駿府にて家康を看病し、死後の祭祀を遺言される。
  • 1625年 90歳、3代 徳川家光の命で東叡山寛永寺の建立に着手。陰陽道や風水に基づいた江戸鎮護を構想
  • 1643年、108歳で没。朝廷より慈眼大師号を追贈さる
  • 1648年、天海が着手した『天海版大蔵経』が完成。この出版は日本の印刷文化史上、最重要の業績と言われている。天海版木活字26万個以上は現存

天海僧正 年表 桑原政則




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