朝鮮通信使


berlinさま よろしくお願いします。 このスレッド立ち上げを契機に、自分なりに朝鮮通信使について勉強し、整理してみました。
朝鮮通信使縁の祭りが現在も瀬戸内の一部で尚行われているのは驚き
山口県下関市では、平成16年から、下関三大祭りのひとつ、馬関祭りにおいて、朝鮮通信使行列再現と市民交流公演が催されています。12年前からなので、最近始まったばかりの催しなのですね。縁地連(NPO法人朝鮮通信使縁地連絡協議会)という組織が頑張っているようです。当時の韓流ブームにあやかって、地域活性化、観光客増加を期待して、催しが行われるようになったのですね。日韓関係は政府間の関係改善があってこそですが、こうした交流を重ねて日韓国民が信頼関係を築いていけると良いですね。
対馬厳腹港祭りにおける朝鮮通信使行列再現の催しは、2012年の仏像盗難事件、韓国地裁の仏像返還拒否で、市民の嫌韓感情が悪化したり、台風が襲ったりで、開催されていませんでしたが、昨2015年は3年ぶりに行列の催しが行われたそうです。

朝鮮通信使の経緯について、ざっくりとまとめてみました。舌足らずな表現もあると思いますので、ご容赦願います。
朝鮮通信使の訪日は、室町政権、豊臣政権、徳川政権という3つの時代に区分されます。
室町時代
来日回数:3回(1428年、1439年、1443年:1459年は海難のため到着せず。その後150年間途絶えた。)
目  的:将軍就任祝賀、倭寇の海賊行為への共同対処を要請、日本の国情視察)
視察記録:「海東諸国紀」(1443年使節の申叔舟が編纂)の一節を以下に示す。
日本は最も久しく、其つ大なり。其の地は黒龍江の北に始まり、我が済州の南に至り、琉球と相接し、其の勢甚だ長し。その初は、処処に衆を保ち、おのおの自ら国をつくる。周の平王四十八年、其の始祖の狭野は兵を起こして誅討し、初めて州群を置く。大臣おのおの占めて文治するも、中国の封建のごとくは統属甚しからず。習性は強悍にして剣槊(武術)に精なり。舟楫に慣れ、我れと海を隔てて相望む。之を撫するに其の道を得ば、則ち朝鮮は礼を似てし、其の道を失えば、則ち輒ち肆に剽窃せん。海東諸国記:Wiki
豊臣時代
来日回数:2回(1590年、1596年)
目  的:
 1590年:天下統一祝賀、秀吉による朝鮮侵攻の噂の真為を確かめること。
  ・秀吉は、朝鮮国王に対して明の平定を先導するように求める国書を渡した。(秀吉の目指す先は「明」であり、半島部での無益な戦いは極力避けたかった。)
  ・正副史の意見が食い違いのため、侵攻の切迫さは朝鮮朝廷に伝わらなかった。
  ・通信使訪日を明に隠していたため、日朝が通じていると明が疑念を持つ一因になった。
※1592年、文禄の役が始まる。
 1596年:日明和睦交渉のための明国冊封使に朝鮮通信使も同行。
  ・訪日前に、明朝廷は日本降伏を、秀吉は明降伏の報告を受けていた。
  ・秀吉は明使節に謁見、要求否認に激怒し交渉決裂。帰国後に明政府が処刑。
  ・朝鮮通信使は、秀吉に謁見さえもできないままに帰国。
※和睦交渉中の9月1日に伊予地震(M7.0)、9月4日に豊後地震(M7.0~7.8)の大地震と津波が発生。伏見城の天守や石垣も倒壊するなど、大被害となった。
※1597年、慶長の役が始まる。(大地震さえなければ、和睦交渉進展の余地はあったかもしれない。)
※このときの日朝、日明交渉は、どちらの側も上から目線で、プライドだけは高く強気一点張り。間を取り持つ者は、白を黒と言い換えて、その場を取り繕うだけ。…と感じました。
その後、豊臣政権は秀吉の死後まもなく徳川に交代し、この戦いでガタガタになった漢民族の「明」も約40年後には満州族の「清」に倒されてしまいました。
(田中先生の用語使いに準じれば、「満州民族の清が、明とその周辺国(後金、タタール、チベットなど)を征服し、植民地化した。」ということになりますね。逆の言い方をすれば、「清が、明とその周辺国を合わせて、中国を統一した。」ということですね。この歴史事象を「征服」、「植民地化」という用語で説明した歴史資料はあまり見かけませんが。)
江戸時代
来日回数:12回(1607~1811年、ただし、1811年は経費節減のため対馬にて受け入れ)
目  的:
 第1回:国交回復等
  ・日朝ともに両国間貿易を促進したい。
  ・徳川幕府は交易権を押さえ、諸大名が私的な交易により力を蓄えるのを防ぎたい。
  ・朝鮮は、明が朝鮮半島から撤退したので、日本が再侵攻する不安があった。
  ・強大な女真族が南下しているため、朝鮮として南からの脅威は減らしたい。
 第2回:国内平定祝賀等
 第3回以降:将軍就任祝賀等
数十年に一度の異国情緒あふれる朝鮮通信使一行の行列見物は庶民にとっては珍しくて大きな娯楽だったようである。その反面、文化や風習・作法の違いからか、通信使の経路では様々な摩擦や問題を引き起こす場合もあったとされている。
本当なの? びっくりぽん! !!( ; ロ)゚ ゚
(本投稿の下部にリンク添付した『朝鮮通信使(Wiki)』内の【日本の見た朝鮮通信使 ー文化摩擦、事件ー】を参照のこと。)
  ※「その反面」以降の、「様々な摩擦や問題の」具体例についてのWiki記述内容の出典は以下のとおり。
   ・洪禹載『東槎録』(1682)にみられる対馬側から要望された禁止事項の一部
   ・「通信使のおとし子」(2007.7.18 民団新聞)
   ・山本博文『江戸時代を「探検」する』新潮社
なお、幕府からの返礼使は対馬藩が代行したが、主として軍事的な理由だとして漢城(ソウル)まで上ることを朝鮮側から拒否され、釜山の草梁倭館で返礼の儀式が行われたと言われている。
※1811年の第12回朝鮮通信使が対馬で差し止められたのを最後に、断絶した。
 日朝ともに凶作が続いたり、ペリー来航など外圧対応もあり、話題に上らなくなった。
朝鮮通信使の経路(江戸時代)
朝鮮通信使の経路

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