2010/11/15

松平信綱は、川越藩一の名君。

川越藩一の名君 松平信綱展 川越市立博物館  2015年
松平信綱(のぶつな、1596年- 1662年)は、
    川越の城下町の整備、
    野火止用水の開削(かいさく)、
    新河岸(しんがし)川、舟運(しゅううん)の開設、
    武蔵野新田の開発
などの特に民生に手腕を発揮した川越一の藩主です。

1638年の川越大火後に、城域を倍増し、今に残る十ヶ町四門前(じっかちょう・しもんぜん)という町割りをしました。

舟運は舟運は、知恵伊豆・松平信綱が川越藩主になってから本格的に開かれました。
川越に、川越商人に莫大な利益をもたらしました。
また江戸の技術文化もたくさん伝えました。
松平信綱は、川越を小江戸と称せられる基礎を築き上げました。

三芳野神社の造営奉行でもありました。
【※】
川越博物館の特別展示室では、松平信綱奉納の『三芳野天神絵巻』が展示されています。
小堀遠州と川越藩主 -遠州と酒井忠勝の交流を中心に-  小堀遠州と、酒井忠勝・堀田正盛・松平信綱との茶の湯を通した交流  2015/11/15まで。

川越まつりを始めたのも松平信綱です。
江戸の山車(だし)は東京ではみこしになってしまいましたが、川越の山車(だし)は江戸の様式をいまだに保存しています。
川越が小江戸(ミニ江戸)といわれるゆえんです。

1637年には島原の乱を、10万以上の軍勢で鎮圧しました。
島原の乱の時には、海上からフランス艦が無言の威嚇をしていました。
【※】
実は、オランダから借りた偽装艦でした。

島原の乱の功績により、1639年忍(おし)藩主から川越藩主に出世しました。

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松平信綱は、3代家光を出生時より補佐し、徳川幕府の老中もつとめ、幕藩体制を固めました。
徳川家に59年にわたり奉仕しました。
特に家光には、家光の誕生以来47年間奉仕しました。

才知に富み、伊豆守という官職にかけて「知恵伊豆」(= 知恵出づ)と言われました。
【※】
平林寺に廟所(びょうしょ)があります。
「知恵伊豆」をうたった小学校歌があると聞きました。

徳川家光は「自分の右手は酒井忠勝、左手は松平信綱」と信頼を寄せました。

自分の死の直前に、関係書類を焼却しました。カゲに徹するためでした。

仙波東照宮 の1番大きな灯籠が松平信綱献上のものです。


平林寺のページ:松平信綱


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大河内(おおこうち)正敏

理化学研究所の理事長を務めた大河内正敏は、松平信綱と同じく大河内松平家の系統です。

明治になり、子孫は「松平」を返上しました。
大河内(おおこうち)正敏
理化学研究所(理研)の3代目所長、25年間。貴族院議員。東大工学部卒。大正天皇のご学友。
田中角栄を引き立てました。