2010/11/15

松平信綱。幕府の老中で川越藩一の名君。5月4日没。Matsudaira Nobutsuna

松平信綱。幕府の老中で川越藩一の名君。5月4日没。Matsudaira Nobutsuna

知恵伊豆 松平信綱展 
川越市立博物館  2015年
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【※】
川越博物館の特別展示室では、松平信綱奉納の『三芳野天神絵巻』が展示されています。
小堀遠州と川越藩主 -遠州と酒井忠勝の交流を中心に-  小堀遠州と、酒井忠勝・堀田正盛・松平信綱との茶の湯を通した交流  2015/11/15まで。
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・1596年12月19日- 1662年5月4日没

松平信綱(のぶつな、1596年- 1662年)は、
    川越の城下町の整備、
    野火止用水の開削(かいさく)、
    新河岸(しんがし)川、舟運(しゅううん)の開設、
    武蔵野新田の開発、
などの特に民生に手腕を発揮した川越一の藩主です。

1638年の川越大火後に、城域を倍増し、今に残る十ヶ町四門前(じっかちょう・しもんぜん)という町割りをしました。

舟運は、知恵伊豆・松平(*)信綱が川越藩主になってから本格的に開かれました。川越商人に莫大な利益をもたらしました。

【*】松平
松平とは、徳川氏の一門である他に、徳川将軍が格式ある外様大名に授けた称号です。

また江戸の技術文化もたくさん伝えました。
松平信綱は、川越を小江戸と称せられる基礎を築き上げました。

三芳野神社の造営奉行でもありました。


川越まつりを始めたのも松平信綱です。
江戸の山車(だし)は東京ではみこしになってしまいましたが、川越の山車(だし)は江戸の様式をいまだに保存しています。
川越が小江戸(ミニ江戸)といわれるゆえんです。

1637年には島原・ 天草の一揆(旧称・島原の乱)を、10万以上の軍勢で鎮圧しました。
島原・ 天草の一揆では、海上からフランス艦(*)が無言の威嚇をしていました。
【*】
実は、オランダから借りた偽装艦でした。

島原・ 天草の一揆鎮圧の功績により、1639年忍(おし)藩主から川越藩主に出世しました。

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松平信綱は、3代家光を出生時より補佐し、徳川幕府の老中首座もつとめ、幕藩体制を固めました。
徳川家に59年にわたり奉仕しました。
特に家光には、家光の誕生以来47年間奉仕しました。

才知に富み、伊豆守という官職にかけて「知恵伊豆」(= 知恵出づ)と言われました。

【※】平林寺
平林寺に廟所(びょうしょ)があります。
「知恵伊豆」をうたった小学校歌があると聞きました。

徳川家光は「自分の右手は酒井忠勝(*)、左手は松平信綱」と信頼を寄せました。

【*】酒井忠勝
「信綱とは決して知恵くらべをしてはならない。あれは人間と申すものではない」

自分の死の直前に、関係書類を焼却しました。カゲに徹するためでした。肖像画も残っていません。

3代家光から4代家綱の補佐をまかされていたため、殉死(じゅんし。後追い自殺)はしませんでした。


川越の仙波東照宮 の1番大きな灯籠が松平信綱献上のものです。

生まれは埼玉県伊奈町のようです。


平林寺のページ:松平信綱



(世のうわさ)
「野火止(のびどめ)用水、川越のまちづくり、川越まつりで、川越を小江戸にしてくれた川越藩一の名君・松平信綱を、川越人はあまり口にしないですね」

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【※】大河内(おおこうち)正敏
大河内(おおこうち)正敏
理化学研究所の理事長を務めた大河内正敏は、松平信綱と同じく大河内松平家の系統です。
理化学研究所(理研)の3代目所長を25年間つとめました。東大工学部卒で、貴族院議員でした。大正天皇のご学友でした。田中角栄を引き立てました。

明治になり、子孫は「松平」を返上しました。