2020/08/21

中院ゆかりの人物:最澄。円仁。尊海。日蓮。島崎藤村。太陽寺一族。秋元藩。梅原猛 <川越の先人

 中院ゆかりの人物:最澄。尊海。日蓮。島崎藤村。太陽寺一族。秋元藩。梅原猛  <川越の先人

川越市 中院 【地図】

◇◇◇◇◇◇

中院は、 慈覚大師・円仁(えんにん)が創建


中院は、830年 円仁(えんにん)が創建しました。

 

円仁(794 - 864。慈覚大師、じかくだいし)は、第3代天台座主(ざす。首長)です。

最澄の弟子で、在唐10年です。

『入唐 求法 巡礼行記(にっとう ぐほう じゅんれいこうき)』をあらわしました。

 

1955年に、駐日アメリカ合衆国大使のエドウィン・O・ライシャワーが英訳して紹介し、世界に知られるようになりました。

 

円仁の『入唐 求法 巡礼行記』は、

  孫悟空で有名な玄奘三蔵(げんじょうさんぞう、602- 664)の「大唐西域記」

  マルコ・ポーロの「東方見聞録」

ととも に、三大旅行記のひとつとなっています。

 


中院の境内には「狭山茶 発祥の地」の石碑があります。

狭山茶は、石碑によれば、円仁が京から、薬用として眠気防止のために中院で栽培したのが始まりです。

茶の栽培は、一帯にひろがり河越茶とな り、狭山茶となりました。

狭山茶は 「色は静岡、香りは宇治よ、味は狭山でとどめさす」とうたわれるように深みのある味で知られます。

◇◇◇◇◇◇

 

尊海が中院を無量寿寺として再興

 

1296年尊海1253-  1332が中院を無量寿寺として再興しました。

尊海は 比企郡 慈光寺(じこうじ)の住持をつとめたのち比叡山で修行し、帰郷して無量寿寺を再興しました。


無量寿寺の無量寿(むりょうじゅ)とは、「量(はか)りきれない寿命」のことで、阿弥陀如来をさします。

 

阿弥陀さまは、実在はしていませんが、お釈迦様(ブッダ。紀元前5世紀)の先生にあたります。

あの世(西方極楽浄土)のほとけさんです。

 

「南無 阿弥陀仏」の「南無」は、サンスクリット語の namas (帰依)からきており、「おすがりします」という意味です。「阿弥陀仏さん、よろしくおねがいします」という意味です。


◇◇◇◇◇◇

 

のちに無量寿寺の子院に、北院(のちの喜多院)、南院(廃寺)が加わりました。

喜多院から仙波東照宮を通り、中院に向かうと、

川越総合高校の手前に、南院(廃寺)の廃仏の一角が見えます。

 

かつては無量寿寺は、北から喜多院→ 中院→ 南院の順に並んでいました。

しかし、仙波東照宮が天海の時代に、昔の中院にとって代わってしまい、

    喜多院→ 仙波東照宮→ 南院(廃寺)→ 中院

と現在の姿になっています。

◇◇◇◇◇◇

 

天台宗の開祖の伝教大師(でんぎょう だいし)・最澄 

 

中院の山門は、ひときわ大きく風格があります。

 

山門前には「忘己利他(もうこりた)」の碑文があります。

天台宗の開祖の伝教大師(でんぎょうだいし)・最澄のことばです。

「己を忘れ、他を利するように(忘己利他)」とのことで、これこそ仏教が理想とする人間の生き方です。

◇◇◇◇◇◇

 

日蓮が伝法灌頂(でんぼうかんじょう、指導者免状)を受ける

 

山門前の2つの石柱には

「天台宗 星野山 中院」、

「日蓮聖人 伝法灌頂之寺」

の銘があリます。

また山門には

「元関東八箇檀林」

「天台宗 別格本山」

の門札が懸かっています。

 

中院は、喜多院共々、天台宗星野山に属します。

寺伝によると、日蓮は中院にて尊海より伝法灌頂(でんぼうかんじょう、指導者免状)を受けました。

 

  「関東八箇檀林」とは、関東の僧侶養成8寺院、今で言う大学院のことです。

 

  「天台宗別格本山」とは、天台宗の本山に準じた特別な格式をもつ寺院のことで、中院はかつては関東天台580寺を統(す)べていました。

◇◇◇◇◇◇ 

 

島崎藤村ゆかりの茶室

 

落ち着いた雰囲気の境内には、島崎藤村ゆかりの茶室、不染亭(ふせんてい)があります。

島崎藤村が義母に贈った茶室で、川越の文化財となっています。

(項目を追加)


◇◇◇◇◇◇


六地蔵のちかくに太陽寺一族の墓があります。

 

秋元家の家臣 太陽寺一族の墓


太陽寺氏は、川越藩主 秋元家の家臣でした。

太陽寺盛胤(もりたね)は、 1711年、秋元喬知(たかとも) 初代藩主が甲斐から川越へ移封となった際に同行しました。 

 

太陽寺盛胤は、日常生活案内風の郷土史『多濃武の雁麻(たのむのかり)』を著しました。川越の来歴や神社、寺院、古跡のことがのべられています。

 

 

秋元藩は 5城主が64年間川越を治める

 

秋元藩の9代、10代、11代、12代の川越城主が64年間川越を治めました。

 

9代川越城主の秋元喬知(たかとも)は、幕府の老中という要職も占めました。

甲斐国の谷村(やむら)藩(現在の都留市)からの移転でした。

秋元藩は,「川越唐桟(とうざん)」につながる絹織物の殖産振興につとめました。

 

 

【※】哲学者・梅原猛(たけし):中院の敷石供養塔について


1997年10月10・11日に比較文明学会が 東京国際大学でありました。

大会終了後の川越での慰労会の席で、私は中院の「敷石供養塔(しきいし くようとう)の写真を見せ、日本では人に踏まれるための敷石も供養していることを、ご報告しました。

 

かつて、仁平(にひら)雄俊住職は、

「毎日石を踏みつけてられる事に対して申し訳ないという気持ちから、供養塔を建てた」と話していました。

敷石供養塔は、中院に3基あります。

 

梅原猛「敷石供養塔は、日本のホコリです。

ずーと、こういった伝統は守っていきたいですね。

桑原先生も、ご協力ください」

 

梅原猛は、西洋哲学では人間第1主義で地球を守れない、としました。

草木国土  悉皆成仏(そうもくこくど しっかいじょうぶつ、=すべてのモノがホトケになれる)=自然中心主義)、に注目しました。

「西洋近代哲学は、フランスのデカルトの言葉『我思う、故に我あり』に象徴される。

『我』つまり人間中心主義だ。

 この思想にのっとった科学技術の発展は豊かで便利な社会を生み出しました。

 だが、デカルト哲学は人間の自然支配を肯定したから、深刻な地球環境の破壊ももたらした」 

 

 豊かな地球あって、はじめて人間がしあわせに存在できることを、

2020年の災害の世が教えているようです。


中院の年表

 

 830年 円仁(えんにん)が創建。

1296年尊海が無量寿寺として再興。

のちに無量寿寺の子院北院(のちの喜多院)、南院(廃寺)が加わる。

1301年東国580ヶ寺の本山に。

1633年 東照宮造営にあたり現在地へ移転

1976年天台宗別格本山特別寺の称号を受ける

 

【※】  桑原政則  「中院案内」『川越の文化財』(第115号。  2013/10)を抜粋、再編集しました)

【追】中院 

0 件のコメント: