河越館跡(常楽寺):
河越重頼(しげより)が居城としていた河越館(かわごえやかた= 地図)跡は、霞ヶ関駅の東京国際大学の反対側にあります。
館(やかた)とは、公私の性格をそなえた官舎のようなものです。
工事中の常楽寺 2004年7月
京都の会社が施行:
設計者は、○○社寺設計という特殊な会社です。施行者は、京都の会社です。
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- 河越重頼(しげより)は、幕府の要職にあり、頼朝から重用(ちょうよう)されていました。
重頼の妻は頼朝の子・頼家の乳母でした。 - 重頼は、頼朝の命令で17歳の娘を義経の妻にさしだし、媒酌(ばいしゃく)もしてもらいました。
頼朝が媒酌したのは、北条時政とこのときだけです。 - 美人画から抜け出たような義経の妻は、京姫といわれました。
- 重頼は、源頼朝が挙兵したとき、今の横須賀市を攻略したりして、鎌倉幕府から重く用いられるようになります。
- 頼朝は、川越のある武蔵一帯を検地し、広大な肥沃な平野であることから重要視します。
武蔵の国は武士の発祥の地でもあります。 - このとき、頼朝は都幾川村の慈光寺に銅鐘を奉納しています。
- 後年、頼朝は、義経(1159-1189)と仲違いしました。
すると、重頼は、義経の縁者ということで、疑心暗鬼にかられた頼朝から、所領を没収され、命までも奪われました。
のちに、頼朝は義経は無実であったことを知り、没収した領地を遺族に返しました。 - 東上線の越生(おごせ)町には、顔振(かあぶり)峠があります。
その昔、義経と弁慶が、顔を振り返りながら景色に見とれて、この峠を越えたというので、この名があります。
- 河越、川越、河肥
- 「河越」は、秩父、北からおりてくる場合、入間川を越えるので、名づけられたとおもわれます。
- 「河越」は江戸時代から「川越」になりました。
- 「河肥」と記される場合もありますが、川に囲まれた肥えた所のこと、あるいは好字化でしょう。