永田町で、政界きっての家康好きとして知られる、長妻昭 衆院議員を議員会館に訪ねた。事務所の壁には「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず……」でおなじみ、「家康公遺訓」が恭しく額に掲げられていた。
「遺訓には『怒りは敵と思え』ともある。やみくもに怒らず、理不尽な社会・政治は許さない、という『正しい怒り』が肝要です。もっとも家康の境地にはまだまだ至りませんが……」長妻さんがほれ抜いた家康は、NHKの歴史情報番組「歴史秘話ヒストリア」(3月16日放送)で視聴者が選ぶ「好きな歴史上の人物ベスト5」では、
「うーん。信長や秀吉に比べると地味ですが、地道に人々の支持を得て、世界でもまれな260年の太平の世を築いた。これはすごいことですよ。家康のマニフェスト、ご存じですか」。家康は合戦で「厭離穢土(おんりえど)欣求浄土(ごんぐじょうど)」と大書した旗を掲げていたという。汚れた現世を戦いのない浄土にしたい、という大意だ。
「『何より大切なのは平和だ』というマニフェストですが、これをきちんと実現した。信長、秀吉の政権は結局、短命でしたし。派手な言動に走らず、地道に歩むことが大切です」と長妻さん、額を見上げながら、しみじみ説いた。
その平和主義者の家康が嫌われるのはなぜか。歴史学者の小和田哲男静岡大名誉教授は「平和な世を築いたことが家康評を低くした要因かもしれません」と逆説的に説く。
家康は秀吉の死後、「関ケ原の戦い」で豊臣家の天下を奪って江戸幕府を開き、さらに「大坂冬の陣・夏の陣」で豊臣家を滅ぼした。源義経や真田幸村らがヒーローになるように、判官びいきの日本人の情緒が家康嫌いを生んでいるという見方が一般的だが、小和田さんは「それだけではありません」と言うのだ。
「明治以降の歴史教育のあり方の影響も大きい。家康は『平和主義者』ととらえられ、軍部などに評価されなかったのです」
それを裏付ける900ページ超の大著「教科書の歴史」(56年)に行き当たった。教育史学者の唐沢富太郎氏が戦前の全教科書を精査した労作である。これによると、戦前の学校教育が最も重視した「修身」の国定教科書(03〜45年)に秀吉は12回登場し、明治天皇(22回)、二宮金次郎(18回)、上杉鷹山(15回)に次ぐ多さだった。これに対し、家康の登場はたった1回だ。秀吉の家臣、加藤清正ですら、11回も登場するのに、だ。
「秀吉は『朝鮮出兵』を引き起こしましたが、対外膨張を目指していた戦前の日本にとって、秀吉は『英雄』なのです。大陸に攻め込んだ秀吉に続け、と。当時の軍国主義的風潮にも合致したんでしょう」と小和田さんはみる。家康は秀吉の対外膨張路線をやめ、朝鮮との国交を回復した。「この点が戦前の政府・軍部にとって理想の人物ではないし、何より英雄・秀吉の豊臣家を滅ぼしたのだから良く言われるはずがありません」
尋常小学校の「国史」教科書(35年)でも秀吉は16ページが割かれるが、家康は12ページ余。徳川幕府への評価も「皇室を大切にせず、わがままなふるまいが多くなった……」と否定的な筆致が少なくない。
歴史小説に詳しい文芸評論家、縄田一男さんも明治政府の影響を指摘する。「徳川を倒し、明治政府の権力を握ったのは、『関ケ原の戦い』で家康に敗れた外様の薩摩、長州両藩の人たちです。新権力者としても、家康や江戸幕府を悪者にすることが不可欠だった。その影響が今も大きい、と見るべきです」
縄田さんは、家康の“名誉回復”がなされたのは50〜67年、東京新聞などに連載された山岡荘八さんの長編小説「徳川家康」がロングセラーになってからだと指摘する。「この歴史小説で家康は平和を求めた人物として描かれ、世の中の家康像が変わりました。でも、正当な評価にはまだまだですね」
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