2016/10/15

家康なぜ嫌われる? 平和主義者、軍部の不評買い

家康なぜ嫌われる? 平和主義者、軍部の不評買い

毎日新聞2016年10月11日 highlighter

 秋の臨時国会が始まった。戦国争乱にも例えられる永田町で、政界きっての家康好きとして知られる民進党代表代行、長妻昭衆院議員を議員会館に訪ねた。事務所の壁には「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず……」でおなじみ、「家康公遺訓」が恭しく額に掲げられていた。

 「遺訓が本当に家康の作かは議論があるようですが、家康の人生哲学をよく表していると思う。遺訓には『怒りは敵と思え』ともある。やみくもに怒らず、理不尽な社会・政治は許さない、という『正しい怒り』が肝要です。もっとも家康の境地にはまだまだ至りませんが……」

 長妻さんがほれ抜いた家康は、1963年スタートのNHK大河ドラマで脇役として常連だが、単独で主人公だったのは83年の「徳川家康」1回だけ。大石内蔵助が3回、豊臣秀吉や源義経、坂本龍馬、平清盛は2回主人公を務めたことに比べると見劣りする。同局の歴史情報番組「歴史秘話ヒストリア」(3月16日放送)で視聴者が選ぶ「好きな歴史上の人物ベスト5」では、1位=土方歳三▽2位=織田信長▽3位=伊達政宗▽4位=石田三成▽5位=毛利元就−−。家康はお呼びでない。

 「うーん。信長や秀吉に比べると地味ですが、地道に人々の支持を得て、世界でもまれな250年余の太平の世を築いた。これはすごいことですよ。家康のマニフェスト、ご存じですか」。家康は合戦で「厭離穢土(おんりえど)欣求浄土(ごんぐじょうど)」と大書した旗を掲げていたという。汚れた現世を戦いのない浄土にしたい、という大意だ。

 「『何より大切なのは平和だ』というマニフェストですが、これをきちんと実現した。信長、秀吉の政権は結局、短命でしたし。派手な言動に走らず、地道に歩むことが大切です」と長妻さん、額を見上げながら、しみじみ説いた。臨時国会の所信表明で「世界の真ん中で輝く」と金ピカの言葉を連ねた安倍晋三首相に対するえん曲的な批判、と見るのはうがち過ぎか。

 その平和主義者の家康が嫌われるのはなぜか。歴史学者の小和田哲男静岡大名誉教授は「平和な世を築いたことが家康評を低くした要因かもしれません」と逆説的に説く。

 家康は秀吉の死後、「関ケ原の戦い」で豊臣家の天下を奪って江戸幕府を開き、さらに「大坂冬の陣・夏の陣」で豊臣家を滅ぼした。源義経や真田幸村らがヒーローになるように、判官びいきの日本人の情緒が家康嫌いを生んでいるという見方が一般的だが、小和田さんは「それだけではありません」と言うのだ。

 「戦前の日本で英雄視されたのは秀吉だったという事実にカギがあります。明治以降の歴史教育のあり方の影響も大きい。家康は『平和主義者』ととらえられ、軍部などに評価されなかったのです」

 それを裏付ける900ページ超の大著「教科書の歴史」(56年)に行き当たった。教育史学者の唐沢富太郎氏が戦前の全教科書を精査した労作である。これによると、戦前の学校教育が最も重視した「修身」の国定教科書(03〜45年)に秀吉は12回登場し、明治天皇(22回)、二宮金次郎(18回)、上杉鷹山(15回)に次ぐ多さだった。これに対し、家康の登場はたった1回だ。秀吉の家臣、加藤清正ですら、11回も登場するのに、だ。

 「秀吉は『朝鮮出兵』を引き起こしましたが、対外膨張を目指していた戦前の日本にとって、秀吉は『英雄』なのです。大陸に攻め込んだ秀吉に続け、と。当時の軍国主義的風潮にも合致したんでしょう」と小和田さんはみる。家康は秀吉の対外膨張路線をやめ、朝鮮との国交を回復した。「この点が戦前の政府・軍部にとって理想の人物ではないし、何より英雄・秀吉の豊臣家を滅ぼしたのだから良く言われるはずがありません」

 尋常小学校の「国史」教科書(35年)でも秀吉は16ページが割かれるが、家康は12ページ余。徳川幕府への評価も「皇室を大切にせず、わがままなふるまいが多くなった……」と否定的な筆致が少なくない。

 歴史小説に詳しい文芸評論家、縄田一男さんも明治政府の影響を指摘する。「徳川を倒し、明治政府の権力を握ったのは、『関ケ原の戦い』で家康に敗れた外様の薩摩、長州両藩の人たちです。新権力者としても、家康や江戸幕府を悪者にすることが不可欠だった。その影響が今も大きい、と見るべきです」

 縄田さんは、家康の“名誉回復”がなされたのは50〜67年、東京新聞などに連載された山岡荘八さんの長編小説「徳川家康」がロングセラーになってからだと指摘する。「この歴史小説で家康は平和を求めた人物として描かれ、世の中の家康像が変わりました。でも、正当な評価にはまだまだですね」

 翻って現代日本。民主党の政権交代を機に2大政党による戦いが始まるかに一瞬見えたが、結局は圧倒的な自民党1強になった永田町である。「遺訓」には「勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる」とあるが、国政選挙で負け戦続きの民進党は惨敗を教訓に再度の天下取りができるのか。その道は、なかなか見えてこない。

 長妻さんは苦笑い。「先日も徳川宗家19代目の家広さんと会って、家康像を尋ねると『優秀なブレーンが集まってくる人だ』と言っていました。民進党も一人一人は優秀ですが、家康の家臣団のような結束が我々にあるか。最後は『正しい怒り』です。安倍政権に戦前を感じるという声もあるし、格差もどんどん広がっている。家康公の『欣求浄土』ではないが、こんな政治は許せない、という怒りと迫力で結束しなければ、ね」

 ドラマ「真田丸」はいよいよ激動の佳境。さて永田町劇場に天下分け目の戦いが起きるのはいつだろうか。

徳川家康(1542〜1616)


 三河(愛知県)の土豪の生まれ。近隣の今川義元、織田信長の父信秀の人質として幼少期を過ごした。織田信長の死後は東海地方に勢力を伸ばし、後に豊臣秀吉に従って江戸を拠点に関東地方を領有。「関ケ原の戦い」(1600年)で豊臣家から実権を奪い、江戸幕府を開府した。「大坂冬の陣」(1614年)に至る過程では、「豊臣家が鋳造した鐘の銘が不敬だ」と糾弾して開戦を誘い、和睦後も一方的に大坂城の内堀を埋めて豊臣家を憤激させ、翌年の「夏の陣」に持ち込んだ、と伝えられる。その深慮遠謀ぶりが講談などで「タヌキおやじ」と評され、戦後も国民的な人気作家の司馬遼太郎や池波正太郎によってずる賢い策士として描かれた。

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