徳川家康の東海での戦い: 桶狭間、三方ヶ原、長篠、小牧・長久手 <徳川つれづれ pg
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徳川家康の東海での戦い: 桶狭間、三方ヶ原、長篠、小牧・長久手 |
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静岡県の遠江(とおとうみ) と駿河 |
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徳川家康の戦いの東海編のまとめです。
- 1560 (19歳) 桶狭間の戦い
- 1572 (31歳) 三方ヶ原の戦い
- 1575 (34歳) 長篠の戦い
- 1584 (43歳) 小牧・長久手の戦い
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1)1560年(19歳) 桶狭間の戦いにて今川義元 戦死。家康、岡崎にて 自立
人質元の
今川義元は、
寛大でした。
人質 徳川家康を
自分の有力武将に育てようと、丁重に遇します。
軍師 太原雪斎(たいげん せっさい)を徳川家康の教育にあたらせました。
岡崎の徳川家臣たちも
徳川家康と駿河ですごしています。
今川義元は、
政治経済に明るいすぐれた大名でした。
今川義元は、
寛大でした。
人質 徳川家康を
自分の有力武将に育てようと、丁重に遇します。
軍師 太原雪斎(たいげん せっさい)を徳川家康の教育にあたらせました。
岡崎の徳川家臣たちも
徳川家康と駿河ですごしています。
今川義元は、
政治経済に明るいすぐれた大名でした。
平和で安全な駿河には
京風文化や学問が発達しました。
今川義元をシニセの企業とすると、
織田信長はイケイケのがさつなブラック企業です。
今川家の子孫は、
江戸時代には徳川家に召し抱えられ、
品川に屋敷を与えられました。
江戸時代には徳川家に召し抱えられ、
品川に屋敷を与えられました。
徳川家康は、江戸幕府を開いてからは、
人質時代の思い出の今川義元の「駿府」で暮らしています。
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2)1572 (31歳) 三方ヶ原の戦い 武田氏に大敗
三方ヶ原(みかたがはら)は件
遠江(とおとうみ。静岡県西部) 浜松の北にあります。
武田信玄(52歳)は
短期決戦で攻めてきました。
徳川軍は総崩れになり、
大敗北となりました。
武田信玄は、天台宗の僧侶でした。
織田信長の比叡山焼き討ちでは、
徳川3将軍 家康、秀忠、家光の
織田信長の比叡山焼き討ちでは、
徳川3将軍 家康、秀忠、家光の
相談役である
天海僧正を
自領に迎え入れました。
武田信玄の祖先は、由緒ある甲斐源氏です。
祖は源義光です。
祖は源義光です。
武田信玄は「信玄堤」など民政にも心を配り、
今でも県民から慕われています。
「信玄公」は神様扱いです。
しかし武田信玄は この戦いのあと
病が悪化し、
死去しました。
徳川家康は武田信玄とのハイレベルな戦いで
切磋琢磨し、
天下人の素地を蓄えました。
天下人の素地を蓄えました。
徳川家康のゆかりの地は
「生誕の岡崎、出世の浜松、大御所の静岡(駿府)」
です。 駿府 とは 駿河国の府中(今の県庁所在地)のことです。
徳川家康は29歳~45歳までの
「生誕の岡崎、出世の浜松、大御所の静岡(駿府)」
です。 駿府 とは 駿河国の府中(今の県庁所在地)のことです。
徳川家康は29歳~45歳までの
17年間を浜松城ですごしました。
浜松時代に
試練にみまわれ、
出世しました。
浜松時代の城将は
浜松時代の城将は
幕府の要職に登用されました。
姉川、三方ヶ原、長篠、小牧・長久手の戦いも
浜松での
出来事です。
現在の浜松市(80万人)には、
スズキ、ヤマハ、ホンダ、カワイなど本社をおく大企業が目立ちます。
進取の気に富む土地柄です。
進取の気に富む土地柄です。
岡崎域にはトヨタが控えています。
静岡市域は、駿府城、東照宮などの文化のマチです。
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3)1575 (34歳) 長篠の戦い 織田軍と組んで武田勝頼を破る
長篠の戦いは、武田信玄の後継者 武田勝頼軍を
織田・徳川軍が、兵力の差で打ち破った戦いです。
馬防柵での防御が有名です。
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4)1584 (43歳) 小牧・長久手の戦い 豊臣軍と1年以上戦う この戦いは
織田の家督を
めぐる争いです。
長男 織田信忠、嫡男 豊臣秀吉
次男 織田信雄、徳川家康
3男 織田信孝、柴田勝家
豊臣秀吉は家督争いを有利に進めます。
3男 織田信孝、柴田勝家陣営は、 豊臣秀吉に敗れて 織田信孝も柴田勝家も自害します。 次男 織田信雄、徳川家康連合は、 小牧・長久手の戦いを始めます。
豊臣秀吉は徳川家康にかないませんでした。 しかし豊臣秀吉は、
織田信雄を攻めて降伏させました。
結果、徳川家康は豊臣秀吉と和議を結ぶことになってしまいました。
ともあれ、
小牧・長久手の戦いでは、徳川家康は見事な采配をしました。
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