左に刀、右太ももにピストルで 和魂洋才の土方歳三 /NDL |
ガウンにブーツの土方歳三 :(※) |
多摩は、徳川家康が肝を入れた特別の地域でした。
青年時代には、実家秘伝の薬を行商しつつ、各地の道場で他流試合を重ね修業を積みます。
1859年、同郷の近藤勇のもとに正式入門します。
1863年、将軍徳川家茂の上洛に際し、浪士隊に近藤勇、沖田総司らと参加します。
彼らは、京都守護職松平容保(かたもり)の下で新撰組をつくり、治安維持を担当します。
新選組は会津藩の嘱託のようなものでした。
土方は副長となリ、実際の指揮命令をとり、鬼の副長の異名をとります。
1864年の池田屋事件でも活躍し、新撰組の勇名は天下にとどろきます。
1868年、鳥羽・伏見の戦で敗れ、船で江戸へ戻ります。
土方歳三は、千葉県・流山で近藤勇が捕らえられると、幕府の伝習隊の参謀となり、宇都宮、会津等を転戦します。
徹底した実践派です。
さらに函館に行き、榎本武揚の幕下に参じます。
五稜郭 |
<* 日本で始めてのことのようです。>
土方歳三はフランス人を指揮したりもします。
共に戦ったジュール・ブリュネは、のちにフランスで陸軍参謀総長になりました。
ブリュネは土方に言いました。「フランス皇帝はあなたを師団長にほしがるでしょう。」
ブリュネたちは「蝦夷共和国」の建設を目指します。
土方歳三は激戦で馬上弾丸にあたり戦死します。
土方歳三は、状況に応じて戦術をどんどん変えました。
松本良順からは保健衛生を学び新撰組には直ちに取り入れました。
フランス人からも学び、のちに彼らを指揮します。
しかし、土方歳三のビジョン、幕府一筋の理念は、ぶれることはありませんでした。
人呼んで、「和魂洋才のラストサムライ(最後の侍)」と言われています。
土方歳三資料館
近藤勇:新しい日本を先取りした新選組の隊長
新選組の足跡をたどる 会津若松観光ナビ
【追】
土方歳三がいて、
河井継之助(つぎのすけ)がいて、
会津武士がいて、
日本武士の「美」が継承されていきます。
【本】司馬遼太郎『燃えよ剣』
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(※)http://blogs.yahoo.co.jp/norikawaijkt/GALLERY/show_image.html?id=40335391&no=1