2013/02/11

蓮馨寺の後北条群像

蓮馨寺の後北条群像 
 ー 大道寺政繁  蓮馨尼  存貞  存応  呑龍  知鑑 ー
 -----------------------------------
(3000字  音読15分、カワベン 2013/02/12 蓮馨寺客殿)

  蓮馨寺(れんけいじ)は、徳川幕府公認の格式の高い檀林(僧侶養成大学)であり、寺領20石を拝領した御朱印寺であった。
江戸ばかりでなく、後北条の要素も多く残す川越では希少な寺である。
本稿では、後北条つながりの人物を中心に紹介する。
実証を待つものを含む。

------------------------
後北条の三つ鱗と葵の御紋。蓮馨寺正面・祈願所

大道寺政繁。女浮世絵師画。
安中市学習の森にて。 2012/12

★ ★ ★ 大道寺政繁

  後北条は、小田原北条、戦国北条ともいわれる。1491年- 1590年の100年にわたり、戦国大名として君臨する。
初代・北条早雲、2代・氏綱、3代・氏康、4代・氏政、5代・氏直と続く。

  大道寺家は北条早雲以来の後北条氏の重臣である。
出自は山城国(京都府)綴喜郡(つづきぐん)大道寺村とされる。
政繁の祖父、父は、1546年の河越夜戦(かわごえよいくさ)で、上杉勢を敗北させる。
これにより太田道灌の築城より90年続いた上杉氏の河越城支配は終わりを告げる。

 <*  (挿入)上杉の川越支配の歴史。>

大道寺氏は以来1590年まで3代40年間にわたり河越地域を支配する。

  大道寺駿河守政繁(だいどうじ するがのかみ まさしげ、1533- 1590、57歳没)は、祖父、父を継いで河越城の城代(城主の代理)となる。1582年(天正10)の本能寺の変ののち、後北条の関東北方支配強化策の一環として、河越城の城代を務めながら、松井田城(群馬県安中市)の城主を兼帯する。
当時河越城と松山城44
  1590年の豊臣秀吉の小田原の戦いで、松井田城を守るも、前田利家らに攻められ降伏、同年、秀吉の命で自害する。

  徳川家康の豊臣秀吉への強い懇願で、大道寺政繁の子供らは家康預かりの身となり、大道寺政繁の長男は将軍・徳川秀忠に仕える。

  常楽寺に墓と供養塔。松井田の補陀寺(ほだじ)に墓。青森県の貞昌寺に供養塔がある。


★ ★ ★ 開基は蓮馨尼

  蓮馨寺の正面祈願所・呑龍堂(どんりゅうどう)には、後北条氏の紋所・三つ鱗(みつうろこ)が、徳川の葵の御紋と並列する。
徳川幕府が、後北条にやさしかった証左でもある。

  蓮馨寺の開基(世俗の創建者)は、小田原出身の蓮馨尼(大道寺政繁の母。異説では叔母)である。
蓮馨とは、「極楽浄土の蓮の香り」のことである。

  蓮馨尼は、1549年徳川家康が幕府を開く50年も前に、蓮馨寺を現・上尾市に創立し、英才のほまれ高い甥の存貞を開山(初代僧侶)とする。
寺はのちに、河越城の城代となった大道寺政繁が、現在地に移す。

  蓮馨寺墓域には蓮馨尼の供養碑、板碑が。
同じく、川越の見立寺(けんりゅうじ)、大蓮寺も存貞を開山とする。
また西雲寺(さいうんじ)も同宗に属し蓮馨寺を支えた。
熊野神社もかつては蓮馨寺の守り神で蓮馨寺に所属。

★ ★ ★ 4名の高僧: 存貞、存応、呑龍、知鑑

  平安時代には仏教は国家のためのもの、貴族のためのものであった。鎌倉時代になり、法然は、万人向けの浄土宗を開き、「誰でも南無阿弥陀仏をとなえれば、極楽往生できる」と教える。
浄土真宗の親鸞も法然の弟子である。
法然は「となえれば成仏」、親鸞は「信じれば成仏」と説き、仏教を開放する。

  蓮馨寺は、浄土宗7200の寺院中、冠たる名僧高僧を輩出する。

★ 1. 存貞: 蓮馨寺初代から増上寺第10世に

  存貞(ぞんてい、感誉存貞、1522- 1574)は、小田原の人で後北条氏の大道寺氏の出身である。
蓮馨寺を開山し、大本山・増上寺の第10代法主(ほっす)となる。
増上寺は(関東域の)大本山、京都の知恩院は総本山である。

  1590年、秀吉軍が後北条の領地・河越を攻撃せんとした時、存貞が豊臣秀吉に手紙をしたためる。
秀吉からの「河越では今後いっさい、火付盗賊、戦乱はまかりならぬ」との朱印状が蓮馨寺に残る。
これにより河越が戦禍を免れたといわれる。
  伝法(でんぼう)とは、僧侶になるための宗派の奥義(おうぎ)伝達の形式のことで、檀林の特権約条である。
本山で修行のあと、感誉存貞の「感誉流伝法」を授与されてはじめて正式の僧侶になる。
浄土宗では、「感誉流伝法」を、現在でも正式に用いている。

川越の見立寺(けんりゅうじ)、大蓮寺も存貞が開山した。

★ 2. 存応: 大本山・増上寺中興の祖

  存応(ぞんのう、源誉存応、1544- 1620)は、小田原・大長寺で存貞に弟子入りする。
存貞に従い、蓮馨寺に赴任する。
与野・長伝寺に閑居ののちに、増上寺の第12代目法主となる。

  存応は、徳川家康が入府すると親交を深め、増上寺を徳川家の菩提寺にする。
また、家康の援助で、増上寺の大造営をおこなう。
徳川家康は蓮馨寺を3回訪れたことが蓮馨寺の古文書に残る。
また、蓮馨寺には歴代将軍の位牌が安置されている。

  存応は、蓮馨寺を含め関東の18か寺を十八壇林(僧侶養成大学)として整備し、教団を組織化する。
檀林では3年ずつ9期、計27年間修行する。
  大学者・存応が川越(江戸時代前は「河越」)で家康の宗教顧問・喜多院の天海と法論を闘わすとの記録が蓮馨寺に残る。 <*  のちに存応の増上寺に徳川6将軍が埋葬され、天海の寛永寺に6将軍が埋葬される。>

  天皇より「国師」号を賜り、浄土宗の第一人者となり、増上寺の寺格を知恩院と同等に高める。
  1616年に家康が没すると増上寺で導師を務めた。

★ 3. 呑龍: 毎月8日は呑龍デー

  呑龍(どんりゅう、1556- 1623)は、存応の弟子で、蓮馨寺で知名度第一の僧侶である。
 <*  2番は存応、3番存貞、4番知鑑>
貧しい子どもを寺の子として引き取り、読み書きそろばんを教えたりして、「子育て呑龍」、活仏(いきぼとけ)としてあがめられる。
社会事業の先駆者である。

  1613年、徳川家康の命で、徳川家の先祖をまつる太田(現・群馬県太田市)の大光院の開山となる。

  呑龍は、孝心のために国禁の鶴殺しをした子をかくまい続け、諸方に逃れる。
師の存応が、臨終の際、2代徳川秀忠に赦免を願い、呑龍は大光院に復帰する。

蓮馨寺では毎月8日が呑龍デーで縁日である。

★ 4. 知鑑: 蓮馨寺から知恩院の法主に

知鑑(ちかん。1606- 1678)は、蓮馨寺第9代目で、のちに京都の知恩院の法主に昇りつめる。
知鑑が修理のために蓮馨寺から持ち込んだ阿弥陀三尊(『往生要集』の恵心(えしん)作)は、いまも知恩院の千畳敷といわれる集会堂(しゅうえどう、法然上人御堂)に鎮座する。

★ ★ ★ おわりに

  ・川越は掘れば掘るほど、宝物が出てくる鉱山である。
1714年から1866年の150年間にわたって記された公用の『蓮馨寺日鑑』70冊は、県文化財で、現在解読中である。
幕府、増上寺、川越藩、門前町との関係の記録、祭礼、訴訟、嘆願の記録が白日を待っている。

  ・存応の増上寺に徳川6将軍が、天海の寛永寺に6将軍が埋葬されている。ともに川越の高僧が関係した。感懐を覚える。

  ・蓮馨寺からは増上寺の法主(ほっす)に2名、知恩院にも1名、その他有名檀林の住職を輩出している。
蓮馨寺は、誇るべき川越の宝である。

  ・後北条をたぐれば、徳川幕府がなぜ川越に幕府の老中をおき、川越を重要視したかが分かり、地元史が更に身近になる。
今後の展開を期待したい。



【お礼】

本稿は、「川越を勉強する会」(NPO法人武蔵観研)での粂原恒久先生(蓮馨寺住職、大正大学講師)の講義シリーズを参考にしました。
また、川越市文化財保護協会の見学会「後北条氏ゆかりの城を訪ねてー 松井田城跡、…」(2012/12/5)で、示唆、インスピレーションをいただきました。
記して感謝します。
文責は桑原政則にあります。

(元原稿は『川越の文化財』第113号に掲載)