ー 大道寺政繁、蓮馨尼、感誉存貞、源誉存応、呑龍、知鑑 ー
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本稿は、桑原政則「蓮馨寺の後北条6偉人」『川越の文化財』第113号(2013年)を、加筆、編集したもので、文体は「である」調です。
2019年1月
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(3000字 音読15分に、勉強会 2013/02/12 蓮馨寺客殿)
蓮馨寺(れんけいじ)は、徳川幕府公認の格式の高い檀林(僧侶養成大学)であり、寺領20石を拝領した御朱印寺であった。
江戸ばかりでなく、後北条の要素も多く残す川越では希少な寺である。
本稿では、後北条つながりの人物を中心に紹介する。
実証を待つものを含む。
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1) 大道寺政繁
後北条は、小田原北条、戦国北条ともいわれる。1491年- 1590年の100年にわたり、戦国大名として君臨する。
初代・北条早雲、2代・氏綱、3代・氏康、4代・氏政、5代・氏直と続く。
大道寺家は北条早雲以来の後北条氏の重臣である。
出自は山城国(京都府)綴喜郡(つづきぐん)大道寺村とされる。
政繁の祖父、父は、1546年の河越夜戦(かわごえよいくさ)で、上杉勢を敗北させる。
これにより太田道灌の築城より90年続いた上杉氏の河越城支配は終わりを告げる。
<* (挿入)上杉の川越支配の歴史>
大道寺氏は以来1590年まで3代40年間にわたり河越地域を支配する。
大道寺駿河守政繁(だいどうじ するがのかみ まさしげ、1533- 1590、57歳没)は、祖父、父を継いで河越城の城代(城主の代理)となる。
坂戸宿を開き、現在の坂戸市発展の礎を築きました。
1582年(天正10)の本能寺の変ののち、後北条の関東北方支配強化策の一環として、河越城の城代を務めながら、松井田城(群馬県安中市)の城主を兼帯する。
<* (挿入)当時河越城と松山城>
1590年の豊臣秀吉の小田原の戦いで、松井田城を守るも、前田利家らに攻められ降伏、同年、秀吉の命で自害する。
徳川家康の豊臣秀吉への強い懇願で、大道寺政繁の子供らは家康預かりの身となり、大道寺政繁の長男は将軍・徳川秀忠に仕える。
【※】 常楽寺に墓と供養塔。松井田の補陀寺(ほだじ)に墓。青森県の貞昌寺に供養塔がある。
2) 蓮馨寺の開基は蓮馨尼
蓮馨寺の正面祈願所・呑龍堂(どんりゅうどう)には、後北条氏の紋所・三つ鱗(みつうろこ)が、徳川の葵の御紋と並列する。
徳川幕府が、後北条にやさしかった証左でもある。
蓮馨寺の開基(世俗の創建者)は、小田原出身の蓮馨尼(大道寺政繁の母。異説では叔母)である。
蓮馨とは、「極楽浄土の蓮の香り」のことである。
蓮馨尼は、1549年徳川家康が幕府を開く50年も前に、蓮馨寺を現・上尾市に創立し、英才のほまれ高い甥の存貞を開山(初代僧侶)とする。
寺はのちに、河越城の城代となった大道寺政繁が、現在地に移す。
蓮馨寺墓域には蓮馨尼の供養碑、板碑が。
同じく、川越の見立寺(けんりゅうじ)、大蓮寺も存貞を開山とする。
また西雲寺(さいうんじ)も同宗に属し蓮馨寺を支えた。
熊野神社もかつては蓮馨寺の守り神で蓮馨寺に所属。
3) 4名の高僧: 感誉存貞、源誉存応、呑龍、知鑑
平安時代には仏教は国家のためのもの、貴族のためのものであった。鎌倉時代になり、法然は、万人向けの浄土宗を開き、「誰でも南無阿弥陀仏をとなえれば、極楽往生できる」と教える。
浄土真宗の親鸞も法然の弟子である。
法然は「となえれば成仏」、親鸞は「信じれば成仏」と説き、仏教を開放する。
蓮馨寺は、浄土宗7200の寺院中、冠たる名僧高僧を輩出する。
5) 感誉存貞: 蓮馨寺初代から増上寺第10世に
感誉存貞は、浄土宗の正統な考えを確立した人物である。
存貞(ぞんてい、感誉存貞、1522- 1574)は、小田原の人で後北条氏の大道寺氏の出身である。
蓮馨寺を開山し、大本山・増上寺の第10代法主(ほっす)となる。
増上寺は(関東域の)大本山、京都の知恩院は総本山である。
1590年、秀吉軍が後北条の領地・河越を攻撃せんとした時、感誉存貞が豊臣秀吉に手紙をしたためる。
秀吉からの「河越では今後いっさい、火付盗賊、戦乱はまかりならぬ」との朱印状が蓮馨寺に残る。
これにより河越が戦禍を免れたといわれる。
伝法(でんぼう)とは、僧侶になるための宗派の奥義(おうぎ)伝達の形式のことで、檀林の特権約条である。
本山で修行のあと、感誉存貞の「感誉流伝法」を授与されてはじめて正式の僧侶になる。
浄土宗では、「感誉流伝法」を、現在でも正式に用いている。
川越の見立寺(けんりゅうじ)、大蓮寺も存貞が開山した。
6) 源誉存応(げんよぞんのう): 大本山・増上寺中興の祖
源誉存応は、徳川家康を増上寺と結びつけ、檀家にした。
源誉存応(1544- 1620)は、小田原・大長寺で感誉存貞に弟子入りする。
感誉存貞に従い、蓮馨寺に赴任する。
与野・長伝寺に閑居ののちに、増上寺の第12代目法主となる。
源誉存応は、徳川家康が入府すると親交を深め、増上寺を徳川家の菩提寺にする。
また、家康の援助で、増上寺の大造営をおこなう。
徳川家康は蓮馨寺を3回訪れたことが蓮馨寺の古文書に残る。
また、蓮馨寺には歴代将軍の位牌が安置されている。
源誉存応は、蓮馨寺を含め関東の18か寺を十八壇林(僧侶養成大学)として整備し、教団を組織化する。
檀林では3年ずつ9期、計27年間修行する。
大学者・源誉存応が川越(江戸時代前は「河越」)で家康の宗教顧問・喜多院の天海と法論を闘わすとの記録が蓮馨寺に残る。
<* のちに源誉存応の増上寺に徳川6将軍が埋葬され、天海の寛永寺に6将軍が埋葬される。>
源誉存応は、天皇より「国師」号を賜り、浄土宗の第一人者となり、増上寺の寺格を知恩院と同等に高める。
1616年に家康が没すると源誉存応は、増上寺で導師を務めた。
7) 呑龍:社会事業の先駆者 毎月8日は呑龍デー
呑龍(どんりゅう、1556- 1623)は、源誉存応の弟子で、蓮馨寺で知名度第一の人気僧侶である。
<* 2番目は源誉存応、3番目は感誉存貞、4番目は知鑑>
貧しい子どもを寺の子として引き取り、読み書きそろばんを教えたりして、「子育て呑龍」、活仏(いきぼとけ)としてあがめられる。
社会事業の先駆者である。
1613年、徳川家康の命で、徳川家の先祖をまつる太田(現・群馬県太田市)の大光院の開山となる。
呑龍は、孝心のために国禁の鶴殺しをした子をかくまい続け、諸方に逃れる。
師の存応が、臨終の際、2代徳川秀忠に赦免を願い、呑龍は大光院に復帰する。
蓮馨寺では毎月8日が呑龍デーで縁日である。
8) 知鑑: 蓮馨寺法主(ほっす)から知恩院の法主に
浄土宗の総本山・知恩院本堂の阿弥陀三尊は、蓮馨寺出身のでのちに知恩院法主の知鑑上人が寄進したものである。
知鑑(ちかん。1606- 1678)は、蓮馨寺第9代目で、のちに京都の知恩院の法主に昇りつめる。
知鑑が修理のために蓮馨寺から持ち込んだ阿弥陀三尊(『往生要集』の恵心(えしん)作)は、いまも知恩院の千畳敷といわれる集会堂(しゅうえどう、法然上人御堂)に鎮座する。
おわりに
・川越は掘れば掘るほど、宝物が出てくる鉱山である。
1714年から1866年の150年間にわたって記された公用の『蓮馨寺日鑑』70冊は、県文化財で、現在解読中である。
幕府、増上寺、川越藩、門前町との関係の記録、祭礼、訴訟、嘆願の記録などの川越の歴史が白日を待っている。
・存応の増上寺に徳川6将軍が、天海の寛永寺に6将軍が埋葬されている。ともに川越の高僧が関係した。
・蓮馨寺からは増上寺の法主(ほっす)に2名、知恩院にも1名、その他有名檀林の高僧を輩出している。
蓮馨寺は、誇るべき川越の宝である。
・後北条をたぐれば、徳川幕府がなぜ川越に幕府の老中をおき、川越を重要視したかが分かり、地元史が更に身近になる。
今後の展開を期待したい。
【お礼】
本稿は、「川越を勉強する会」(NPO法人武蔵観研)での粂原恒久先生(蓮馨寺住職、大正大学講師)の講義シリーズを参考にしました。
また、川越市文化財保護協会の見学会「後北条氏ゆかりの城を訪ねてー 松井田城跡、…」(2012/12/5)で、示唆、インスピレーションをいただきました。
記して感謝します。