近藤勇 【画像】 /国会図書館 |
・1834年10月9日-1868年5月17日。35歳
多摩地方は、徳川家の天領(将軍の直轄地)でした。
多摩はまた日本の主要輸出品の生糸の大産地であり、経済力もありました。
◇ ◆ ◇
近藤勇(いさみ)は、多摩の農家に生まれました。
16歳の時、剣術道場に入門、28歳で道場主になります。
多摩地方は、徳川家の天領(将軍の直轄地)でした。
徳川家康は、
街道の町民には武道を許しました。
近藤勇、土方歳三らの新撰組はこのようにしてうまれました。
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徳川家康は、精強な元の武田騎馬軍団や北条の浪人を
八王子 千人同心(はちおうじ せんにんどうしん)
に編成しなおし、有事に備えました。
徳川家康は、精強な元の武田騎馬軍団や北条の浪人を
八王子 千人同心(はちおうじ せんにんどうしん)
に編成しなおし、有事に備えました。
八王子千人同心は、普段は農民ですが、ことあると
武士に変身する
郷士(ごうし。農民武士)
でした。
武士に変身する
郷士(ごうし。農民武士)
でした。
この多摩地区には武士集団はいませんでした。
しかし徳川幕府の直轄地である天領であったため、
八王子 千人同心徳川家に対する忠誠心が強く、
また武道をたしなむ尚武の風がある土地柄でした。
【※】八王子千人同心多摩をゆく 小平市こども郷土資料
しかし徳川幕府の直轄地である天領であったため、
八王子 千人同心徳川家に対する忠誠心が強く、
また武道をたしなむ尚武の風がある土地柄でした。
八王子 千人同心は、
日光東照宮のきびしい警備にもあたりました。
八王子から日光への千人同心街道もつくりました。
八王子から日光への千人同心街道もつくりました。
1800年ロシアの接近にそなえ蝦夷地にも進出しました。
苫小牧の基礎は八王子千人同心が築きました。
苫小牧の基礎は八王子千人同心が築きました。
多摩人には、将軍に直接仕えているという誇りがありました。
多摩はまた日本の主要輸出品の生糸の大産地であり、経済力もありました。
◇ ◆ ◇
近藤勇(いさみ)は、多摩の農家に生まれました。
16歳の時、剣術道場に入門、28歳で道場主になります。
土方歳三(ひじかた としぞう)、沖田総司も道場に集まりました。
稽古のあとには、政治論議に花を咲かせました。
近藤勇は、30歳の時、幕府の浪士組募集に仲間8人と応募します。
新選組の誕生です。
旅立ちにあたって、家族、道場の世話を地域の名主に託します。
新選組の誕生です。
旅立ちにあたって、家族、道場の世話を地域の名主に託します。
近藤勇と多摩の強い絆はずっと続きます。
京都で自由に動けたのも多摩の同志、資金の支援のおかげです。
ところで、攘夷派は2派にわかれていました。
公武合体派(こうぶがったいは)は、
天皇と幕府を強化しようとするグループです。
京都で自由に動けたのも多摩の同志、資金の支援のおかげです。
ところで、攘夷派は2派にわかれていました。
公武合体派(こうぶがったいは)は、
天皇と幕府を強化しようとするグループです。
孝明天皇、幕府(一橋、会津、桑名)、新選組です。
親・幕府+ 親・朝廷で、かつ攘夷という派です。
親・幕府+ 親・朝廷で、かつ攘夷という派です。
攘夷とは、「夷(外国人)」を攘(はら)うことです。
近藤勇たちの多摩は天領(将軍領)でしたので、
幕府を、朝廷とともに、奉じました。
ところが尊王攘夷派は、長州、土佐、過激派公家のグループです。
天皇中心、反・幕府で、攘夷という派です。
1864年に京都池田屋に志士らを襲撃し、
一躍天下に名を知られるようになります。
1868年鳥羽・伏見の戦いが京都で起こります。
徳川幕府軍対薩摩・長州軍の戦いです。
幕府を、朝廷とともに、奉じました。
ところが尊王攘夷派は、長州、土佐、過激派公家のグループです。
天皇中心、反・幕府で、攘夷という派です。
1864年に京都池田屋に志士らを襲撃し、
一躍天下に名を知られるようになります。
鳥羽・伏見の戦い |
1868年鳥羽・伏見の戦いが京都で起こります。
徳川幕府軍対薩摩・長州軍の戦いです。
新選組は幕府軍の一員として戦いますが、
徳川方は、惨敗します。
勝った薩摩・長州軍には錦の御旗が上がり、官軍となります。
勝った薩摩・長州軍には錦の御旗が上がり、官軍となります。
新選組は賊軍となります。
近藤勇たちはいったん江戸へ戻り、
薩長新政府軍を迎え撃つために
甲州へ向かいます。
しかし、甲府城は薩長 新政府軍に抑えられていました。
近藤勇は東へ転戦しますが、千葉県流山(ながれやま)で
とられられます。
やがて処刑されます。
新選組は、地域、藩、身分を超えた草の根の仲間の集まりでした。
そこには日本人意識も芽生えていました。
江戸から明治にかけては、武士の力が弱まり、
庶民、農民が世の中を動かす力を持つようになりました。
甲州勝沼の戦い:http://tvrocker.blog28.fc2.com/blog-entry-385.html |
近藤勇たちはいったん江戸へ戻り、
薩長新政府軍を迎え撃つために
甲州へ向かいます。
しかし、甲府城は薩長 新政府軍に抑えられていました。
近藤勇は東へ転戦しますが、千葉県流山(ながれやま)で
とられられます。
やがて処刑されます。
新選組は、地域、藩、身分を超えた草の根の仲間の集まりでした。
そこには日本人意識も芽生えていました。
江戸から明治にかけては、武士の力が弱まり、
庶民、農民が世の中を動かす力を持つようになりました。
あたらしい日本の姿を先取りしたのが新選組でした。
薩長の敵・近藤勇は不当に名前をおとしめられたままです。
薩長の敵・近藤勇は不当に名前をおとしめられたままです。
のちに多摩で自由民権運動が盛んになりますが、
ルーツは新選組にあります。
多摩人の意識の高さはいまに至っています。
ルーツは新選組にあります。
多摩人の意識の高さはいまに至っています。
【名言】
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