- 大蓮寺の内外には「物語」がつまっています。
- 菓子屋横丁で火災などにあったら、新河岸川方面へ。
- 『川越街中避難観光地図』
- 元町休憩所のトイレは、キモノトイレでも。
周囲は、元町休憩所、菓子屋横丁、山王山車(だし)蔵、六塚稲荷、高沢橋、新河岸川、濯紫公園、大蓮寺などの名所に富みます。
大蓮寺の由来
大蓮寺は、蓮馨尼(れんけいに、大道寺政繁の母)が開基(創建した信者)しました。大道寺政繁は、後北条(小田原北条)の家老です。
開山(創建した僧)は感誉上人です。感誉は多くの高僧を育てました。大本山・増上寺の法主(ほっす)にもなりました。増上寺は関東の大本山、京都の知恩院は総本山です。感誉は3代・北条氏康の次男といわれています。
大道寺家は後北条の重臣
後北条は1491年-1590年の100年にわたり戦国大名として君臨します。1546年の河越夜戦では、上杉勢を敗北させます。これにより太田道灌の築城より90年続いた上杉氏の河越城支配は終わりを告げます。
川越城将・大道寺政繁は、常楽寺の復興に尽くしました。蓮馨寺(れんけいじ)を川越に移しました。見立寺(けんりゅうじ)を開きました。
大蓮寺は蓮馨寺(れんけいじ)の末寺
大蓮寺は蓮馨寺の末寺です。見立寺(けんりゅうじ、大蓮寺向い)、西雲寺(さいうんじ、丸広前)も末寺です。川越では浄土宗を4寺数えます。これらの4寺の関係者は北条びいきが多いようです。
かつては大蓮寺前の路地にも菓子屋横丁が
盛時、大蓮寺前の路地も菓子屋の横丁となっていました。元町二丁目(旧、高沢町)は 豪商が多かったことで有名です。今も大きな蔵などが散見されます。六塚稲荷神社は高沢橋の手前にあります。高沢橋(旧称、めがね橋)は、『二十四の瞳』にも登場しました。
徳本(とくほん)上人の石碑
念仏の行者・徳本上人が赤間川(現・新河岸川)の水死亡霊施餓鬼放生会(すいしぼうれい せがき ほうじょうえ)を修行しました。徳本文字の碑が残っています。
子育延命(こそだて えんめい)地蔵堂
子育延命地蔵は、大蓮寺の上人が富士山頂にて3年間の勤行をおこなったことで、大本山・増上寺から贈られました。新河岸川をのぼり、船で運ばれてきました。亀屋の四代目山崎嘉七も助力しています。
【※】地蔵堂の奉納幕に上の小田原北条の家紋・ミツウロコは、「平べったい三角形」になっています。正三角形ではありません。
藤田貞陸は「八百屋お七」の手習い師匠
「八百屋お七」は、放火の罪で火あぶりにされました。
藤田貞陸は、江戸に住んでいた頃、お七を教えました。川越では秋元侯の家臣で、俳人としても著名でした。長寿を賀して刊行された『鶴の遊び』には全国から俳人150名が登場しています。
細田源吉はプロレタリア作家
細田源吉は、地元の作家です。第二次世界大戦後は府中刑務所の篤志面接委員務めました。
吉田とよ子と孫・花形精は女寺子屋の師
吉田とよ子は、帰って21才の時、高沢に寺子屋を開設した。孫、花形精(女性)は、
寺子屋を引き継ぎました。花嫁修業を目的とする女寺小屋の女塾長です。
亀屋・山崎家の墓碑も大蓮寺に
亀屋の四代目山崎嘉七は、横田五郎兵衛、綾部利右衛門などと第八十五国立銀行を設立しました。川越商工会議所設立の初代会頭も務めました。川越出身の橋本雅邦などの日本画を収集し、山崎美術館で公開しています。【※】墓域は故人をお参りの気持ちでしのんでください。
濯紫公園も元は大蓮寺の敷地
濯紫(たくし)公園は元は大蓮寺の敷地でした。のちに、柳沢吉保(のちに大老)の家臣の別荘となりました。大蓮寺の裏庭が濯紫公園に隣接しています。駐車場は50台を収容します。大蓮寺の裏道は広済寺、東明寺に続いています。
六塚稲荷は太田道真が建造
高沢橋手前の小高い場所に六塚(むつづか)稲荷神社があります。ここはもと古墳の頭頂部にあたり、埴輪も出てきます。太田道真が、6つの塚を崩し、6つの稲荷社をまつったといわれています。
稲荷神社は2社あり、琴平、三峰、八幡の摂社も備えています。三摂社はかつて大蓮寺境内にありました。本殿は川越の有形文化財です。太田道真・道灌のスポットは、他に、道灌橋、氷川神社(太田道灌の和歌)、市役所前の銅像、川越城があります。
「高沢不動尊」は占いで有名
門前に「高沢の不動様」があります。姓名判断、家屋の売買、紛失物などをあつかっています。
大蓮寺の概要
山号 来迎山
院号 紫雲院
寺号 大蓮寺
宗派 浄土宗
創建 1567年(永禄10年)。
本尊 阿弥陀仏
住所 〒350-0062 川越市元町2-8-25
HP www.k-dairenzi.jp
バス 「札の辻」バス停下車
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
原寸 |
0 件のコメント:
コメントを投稿