川越城:江戸の背後を守った城
小柴 皐月 2016年12月02日 老友新聞
東京からほど近い、小江戸と親しまれ趣きのある見どころも多い街川越。ちょっとした行楽気分で訪れることが出来る川越城をご紹介いたします。
川越城の創築は太田道灌父子と伝えられています。当時対立していた古河公方足利氏に対抗するために築城され、創築期の規模の資料はなく不明ですが、「川越記」などによると、入間川流域の段丘と低湿地を要害として、当初の規模は本丸・二の丸程度だったと考えられています。
後北條氏配下、小田原城の支城として重臣の大道寺氏が入場していましたが、天正十八年、豊臣秀吉による関東攻略時に前田利家により落城。その後、徳川家康が関東に移るに際し、江戸城の北の守り神と定め川越城を重視し、三河以来の重心であった酒井重忠を配しました。
その後も、江戸の北を固める重要な基点として、徳川家に忠誠を尽くす譜代が城主を歴任し、松平信綱、柳沢吉保の老中職をはじめ多くの幕臣の重鎮を送り出し、川越城は老中職の居城というイメージがあります。
平山城である川越城は武蔵野台地の北東端にあり、その防備には西から北を流れる入間川、北を赤間川、東を伊佐沼の自然の要害に囲まれています。比高差はないものの河川と沼沢地によって堅牢性が確保されてした城を、徹底した大改修を加え、老中職の居城にふさわしく生まれ変わらせたのは、寛政十六年に城主になった松平信綱です。
一国一城令、武家諸法度発布以降の城域拡大の例は大変少なく、信綱が許されたのは北の守りとしての重要性の他に、信綱が幼少時より家光の小姓として寵愛を受けていたことによると考えられています。
信綱は城下町の整備にも着手し、五の字型と呼ばれる町割りを基本とし、城を攻めにくく、守り易くするために、袋小路、七曲り、鍵の手などによる町割りの工夫をしています。
街道の整備、水運開発も特筆されるものです。水陸の流通路確保により、江戸に直結する物資供給地として栄え、文化面でも「小江戸」と呼ばれるまでに発展を遂げたのです。
川越城には嘉永元年に再建された御殿の玄関付近大広間と家老詰所のみが現存しています。全国的にも数少ない遺構です。玄関付近広間は御殿の中ても最大規模で、老樹の居城であったという格式と威厳が伝わってきます。
江戸時代に作られたといわれる、わらべ唄の「とおりゃんせ」は川越城が舞台だという説があります。天神様があった所にお城が出来てしまったため、「ご用のないものとおりゃせぬ」という歌詞になり、お城の中を通って七つの子のお祝いのお札を収めに行く……という歌です。壮大なスケールの城ではありませんが、当時の空気がひしひと伝わってくる城の一つです。
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