渋沢栄一は、民間が道徳で世のなかを良くするのが夢

渋沢栄一は、民間が道徳で世のなかを良くするのが夢

渋沢栄一。幕臣時代
かつてドイツの社会学者、マックス・ウェーバーは、
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
が代表作です。

そこで、ウェーバーは、 「儒教の国は経済発展することなどありえない」と断言しました。


ところが、
渋沢栄一は、『論語と算盤』でウェーバーの学説をくつがえしました。

道理に基づく富の追求は、正しいことだと強調しました。  


ドイツの哲学者マルクス・ガブリエルは、
現代の資本主義に欠落しているのは、倫理だ、と言っています。

「人類の直面する危機を克服するためにも、

道徳を前面に打ち出した<倫理資本主義>へ転換する
必要がある。」と強調しています。


渋沢栄一は
「道徳経済合一説」をとなえます。

儒教が強い日本、シンガポールは、
大いに発展し
世界の模範となっています。



渋沢栄一は、農民の生まれから
尊王攘夷の運動家、江戸幕府の幕臣、明治政府の官僚、財界を牽引する実業家、社会事業家へと飛躍を遂げました。
    資本主義は、欧米では、株で希望者を募り、
利益を株主に還元する株式会社方式が発展しました。
    大航海時代や植民地獲得にもこの方法がみられます。

しかし後発の日本では、軍が産業を先導しました。
やがて「戦争に勝利し、賠償金を取る」ことが目的となりました。
戦前の日本では、戦争を経済行為ととらえていました。
日清戦争では巨額の賠償金を得ました。
第一次大戦でも巨利を得ました。


渋沢栄一は、 日本資本主義の健全な発展には、
民間の金融制度を育て、欧米式の企業を盛んにすることが必要だとしました。

「国を繁栄させるのは、軍隊ではない。商工業を隆盛させることだ」。
栄一は米国との民間外交に積極的でした。

 農民あがりで、
商人経験豊富な渋沢栄一にとっては、
「政府が、軍部が、上から」の官尊民卑の風習潮流
「民間が、下から」に変えるのが生涯の夢でした。


   30歳で請われた大蔵省には3年間で退官しています。

500企業の設立、600の福祉事業に関わったのは、
「民間による」世の中の発展のためです。


 1871年 31歳、株式会社設立の手引書『立会略則(たちあい りゃくそく)』を刊行しました。


1872年 政府は第一国立銀行を設立しました。
国立ではなく、民間の銀行でした。
頭取になったのが渋沢栄一 32歳でした。

これが渋沢栄一の財界人としてのスタートでした。

銀行を民間で、
企業を民間で、が、ここから始まります。

また、この年に60年間死ぬまで続くつづく社会事業 「養育院」への支援も始まりました。
600の社会公共事業へのかかわりの始まりです。
 
社会事業を通じて、富の再配分をし、
社会がうるおい経済が循環するとした
「道徳経済合一説」の実践がこの年に始まっています。

    渋沢栄一の哲学の実践がますます必要な時代になってきています。
格差社会で結婚も子育てもむずかしくなっています。

「渋沢栄一が、いま新しい」、です。


2024年の新紙幣
渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎


【※】川越とのかかわりのある人々

大川平三郎は、渋沢栄一の書生から製紙王に
大川平三郎/ 国会図書館















坂戸市横沼の剣道場で生まれました。
剣道場は、大川平三郎の祖父、川越藩 剣術師範の大川平兵衛がおこしたものです。
大川平三郎は、13歳で東京にいる叔父の渋沢栄一の書生となりました。
大川平三郎は、東大で英語、歴史を学びました。
大川平三郎の製紙会社は国内市場の45%を握り、
「日本の製紙王」とよばれました。

80余の企業を経営し「大川財閥」をつくりあげました。


川越出身の妻 兼子(かねこ)は、渋沢栄一の渡米に同行
兼子(かねこ)は、渋沢栄一団長率いる商工会議所50名の「渡米実業団」の一員として 活躍しました。
ルーズベルト大統領との会見にも立ち会いました。


澁澤龍彦は、幻想的な小説やマルキ・ド・サドの翻訳で知られる小説家です。 渋沢栄一の本家筋の出身です。 初めての海外旅行の際には、 三島由紀夫が羽田空港に見送りに来ました。
4歳頃まで黒門町、志多町に住んでいました。

佐久間旅館
渋沢栄一は、東京の乗合馬車屋に川越で営業することを進めました。
この馬車屋が1894年に佐久間旅館になりました。
佐久間旅館は、島崎藤村や皇族などが利用する由緒ある旅館でした。

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