桓武天皇はなぜ大仏も平城京も捨てた? 

桓武天皇はなぜ大仏も平城京も捨てた? 


平城京、長岡京、平安京   /*

桓武(かんむ)天皇は、平城京から長岡京へ遷都します。
奈良の大仏が怨霊退散には役立たなかったからです。

平城京の仏教の霊験もなくなったからです。

天智天皇系の桓武天皇にとって、天武系の平城京がこわかったこともあります。


ところが、長岡京では弟の早良(さわら)親王が陰謀を企てているとの訴えがあり、早良親王を淡路島へ流します。

早良親王は無実を訴え断食、憤死します。

その後、長岡京は、飢饉、疫病、川の氾濫におそわれ続けます。

桓武天皇の后(きさき)は、2人とも相次いで不慮の死を遂げます。

母親も死亡しました。

皇太子も発狂します。


桓武天皇は、早良親王にたたられた長岡京をわずか10年で捨て、平安京へ遷都します。

自身の「平安」を祈り、都を平安京としました。

平安京では、次をめざしました。
    ・混乱した政治の立て直し
    ・東北地方の支配
    ・最澄、空海などの新仏教の保護


さらに、たたりを鎮めるために、死後の早良親王を祟道(すどう)天皇として格上げし、鎮魂します。
祟道神社 【写真】

このころは、陰陽寮(おんみょうりょう)という正式官庁がありました。
警察+気象庁+厚労省のようなものです。
陰陽寮が怨霊を鎮魂する役目を負っていました。
<※ 陰陽寮が廃止されたのは、明治になってからです。>

桓武天皇が、最澄、空海を唐に派遣したのは、 怨霊退治に効く新しい宗教(=最新科学)を輸入するためでした。

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桓武天皇は強力な天皇でした。
・平安京に遷都しました。
・国史「続日本紀」40巻の編纂をおこなっています。
・23人の妃と36人の子供がいました。
しかし、飢饉、洪水などの変事が続き、怨霊におびえながら生涯を閉じました。

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【桓武天皇(737- 806、69歳)年表】

781年 桓武天皇即位
784年 長岡京着工
785年 早良親王、淡路へ流される途上、憤死。遺骸は淡路に埋葬
790年 天然痘流行
792年 早良親王の霊に謝罪使
794年 平安京に遷都
797年・799年 墳墓に謝罪使
800年 桓武天皇、早良親王に祟道(すどう)天皇の号を贈る。陰陽師らが墓に陳謝、墓守をおく
805年 淡路に常隆寺を建立し、早良親王の冥福を祈る。親王の命日を国忌に
806年 諸国国分寺の僧に読経を命じる。桓武天皇崩御


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