・1421年。和歌山~1502年9月1日没。81歳。箱根町
飯尾宗祇 (いいお そうぎ)は、
室町後期の連歌師です。
連歌(れんが)の黄金時代をきずきます。
・和歌の西行(さいぎょう。1118-1190)
・連歌の宗祇(1421-1502)
・俳句の芭蕉 (1644-1694)
俳句は、芭蕉が尊敬する宗祇の連歌からはじまります。
室町後期の連歌師です。
連歌(れんが)の黄金時代をきずきます。
・和歌の西行(さいぎょう。1118-1190)
・連歌の宗祇(1421-1502)
・俳句の芭蕉 (1644-1694)
俳句は、芭蕉が尊敬する宗祇の連歌からはじまります。
西行の跡を、宗祇、芭蕉が追い、漂泊します。
漂泊の歌人:西行⇒ 宗祇⇒ 芭蕉
連歌「河越千句」が残っています。
川越文学史の記念碑です。
【※】河越は江戸時代から川越に
1470年に3日間、
宗祇を迎えて、
太田道灌の父・道真が、
関東武家を招いて川越城内でもよおします。
宗祇を迎えて、
太田道灌の父・道真が、
関東武家を招いて川越城内でもよおします。
この頃は応仁の乱の時代です。
応仁の乱(おうにんのらん)は、
1467年~1478年までの約11年間にわたった内乱です。
(※ 【受験】 1467 ひとよ むなしい 応仁の乱)
(※ 【受験】 1467 ひとよ むなしい 応仁の乱)
京は、荒れ果て、そのため かえって地方に京文化が生まれました。
室町幕府の力はおとろえ、100年間の戦国時代へとうつります。
千句のうち最初の3句をご紹介します。
1
発句(ほっく、第1の句)は、
この会の主客・連歌師の心敬がよみました。
発句と脇句(第2の句)は、その場の情景を歌います。
♪♪~ < 梅園に 草木をなせる 匂ひかな >
2
脇句は主催者の太田道真がうたいます。
♪♪~ < 庭白妙の 雪の春風 >
3
第3の句以降は、虚構でかまいません。
宗祇の番です。
♪♪~ <うぐいすの 声は外山(とやま)の 陰冴(かげさ)えて>
4
鑑賞するには、発句と脇句を足して味わいます。
♪♪~ < 梅園に 草木をなせる 匂ひかな
庭白妙の 雪の春風 >
≪ 三芳野神社の梅園には草木の匂いがいたします。
雪にまごうように梅の花が舞っています。≫
5
今度は、第3の句と脇句を足します。
♪♪~< うぐいすの 声は外山の 陰冴えて
庭白妙(しろたえ)の 雪の春風 >
≪うぐいすの声は外山にさえわたっています。
近くの庭には、雪にまごうように梅の花が舞っています。≫
6
第千句目は、挙句(あげく)といいます。
宗祇が締めました。
< 老いをやしなう 瀧(たき)そ ひさしき >
「瀧」とは、河越城七不思議のひとつ、天神洗足の井水(てんじん みたらしの せんすい)のことのようです。
こうして、「河越千句」を三芳野神社に奉納したようです。
【宗祇 川越関係の年譜】
1466年 45歳 越生(おごせ)に太田道灌の父道真を訪ねます。
1470年 49歳 太田道真が旧暦正月10日から3日間にわたり主催した「河越千句」に参加します。
ふつうは、気分一新のために場所を替えて、
例えば、三芳野神社、河越城近くの太田道真宅、三芳野神社というふうに催されます。
連歌は、余興的なものとして、
記録を残さないものも多くありますが、
「河越千句」はすべて残っています。
1502年 81歳 上野(こうずけ)から武蔵に入り、
上戸(うわと、河越館)、河越をへて、
江戸へ。
箱根湯本にて死去。
* * *
【参考】
山野清二郎「飯尾宗祇と河越」川越市立博物館歴史講座、2011年10月9日、他
* * *
【追記】
三芳野神社には、梅が生えていましたが、梅は菅原道真がめでた花です。
< 東風(こち)吹かば にほひおこせよ 梅の花
主(あるじ)なしとて 春な忘れそ >
※ 菅原道真(すがわら の みちざね)
三芳野神社には菅原道真(すがわら の みちざね)が、
まつられています。
道真は「学問の神様」「連歌の神様」といわれます。