@@@武田信玄の妹・八重姫(真行尼 (しんぎょうに))が、@1573年(天正元年)川越に真行寺を建立しました。
武田一門の者が次第に川越周辺一帯に移り住むようになりました。
川越は寺の多い街であるが、女性が開いた寺は珍しい。@統計
かつては、寺は村の中心にあり檀家はその周囲にありました。しかし真行寺にあっては、檀家が川島町、伊草、北田島、古家上、上福岡などと外側に広がっています。真行寺が武田の流れを組んでいたからでしょう。
1582年には、武田信玄の孫・武田靖清(やすきよ)が第2世住職に就任しました。
@@@福沢桃介は、慶應義塾で学んでいるときに、福沢諭吉に見込まれて、福沢家に婿入しました。日本の電力王として、活躍しました。
出身は諏訪
@@@武田勝頼の次男靖清1582年 天正10年 真行寺第2世に
在世中に本願寺末寺に
@@@新選組 岩崎勝平
@@@見性院 信玄次女 穴山梅雪の妻 保科正之を養育 @平林寺
平林寺にある**塔は、見性院が家康と懇意であったことから建立されたものです。
@@柳沢吉保<武田より 四国、紀伊にも武田
@@真田も武田の家臣
@@@岩崎勝平 勝平の叔父には福沢諭吉の娘婿で「日本の電力王」と呼ばれた実業家の福沢桃介
勝平の絵
@@@渡辺七造 新選組
渡辺七造 新選組 市造
http://ameblo.jp/rekijyo-doumei/entry-10814075562.html
@@@真宗シンシュウ 大谷派オオタニハ *東本願寺 <親鸞
浄土真宗は関東には少ない ∵北前船が通らなかったから@武田信俊館 小川町
住所:埼玉県比企郡小川町上横田1215番地・輪禅寺
http://www42.tok2.com/home/hakubutukan/musashi/takeda.html
遺構:土塁・武田氏歴代の墓所
武田新十郎信俊の館址。武田信俊は甲斐武田氏の庶流で武田氏滅亡後、徳川家康に仕えた。
父信実は武田信玄の弟で、川窪姓を称し、三河長篠の戦いで戦死した。
天正18(1590)年、徳川家康が関東に入封すると、信俊も関東に移り、一旦尾この地に居を構えたが、翌19年には金久保城に陣屋を構え、ここを本拠としたた。
信俊は館址に輪禅寺を建立し、父信実の供養と武田一族の菩提寺とした。
なお、信実がこの地に居館を構えた時は、川窪姓であったことから、本来は川窪信俊館とすべきなのかもしれないが、「埼玉の中世城館跡」などにも武田信俊館と記されているため、その記述に従った。
川窪氏が武田氏に復したのは、寛文4(1664)年、代は信貞の頃の事であった。
現 況 館址は、輪禅寺になっており、本堂背後に土塁らしき土盛が残されている。
地形的には台地端にあたり、往時はその横の民家も含めて館であった可能性が高いと思われる。
館下に水路があるが、勿論これが往時のものとは考え難いが、一点気になったのは、民家裏手に空掘のような窪地があることである。
民有地なので、勝手に入れないため、調査はしていないが、どうしても空掘のような気がするのは、気の所為であろうか。
→一本木 荒子 <川島
→牛が宿 <川島
→北田島
→古谷
→上福岡 2代前の市長
@@@真行寺
武田武士団 一族 …強固な集団親鸞は聖徳大師を好き
@野々山喜右衛門は、家業は薬問屋で、明治中期から昭和の始めにかけて、川越の商工業の発展に寄与した。商工会議所の役員として、電話の普及、郵便局増設、また綾部利右衛門等と県内初の火力発電所を創設し川越大宮間を走る川越電気鉄道の開通にも尽力した。
@岩崎勝平は、東京美術学校で岡田三郎助に師事し、現在の院展の前身新文展の特選として連続入選し脚光を浴びた。その後他の展覧会でもいくつか入選し将来を嘱望されたが、画壇の有力者の娘であった妻の事故死をきっかけに、画壇を離れ、実家とも縁を切って孤独と貧困の制作活動を続けた。太平洋戦争後、公募展への復帰も試みたが果たせなかった。川端康成の後ろ盾で発表した街のデッサン画が世の関心を引いた時
@見性院宝篋印塔
見性院は武田信玄の二女で、武田家の有力武将である穴山信君(梅雪)の正室です。実名は定かではないが、法名を見性院殿高峯妙顕大師と言い、梅雪の死後、夫梅雪と懇意であった家康に養われ、のちに秀忠の子幸松丸(のちの保科正之)と母お静の方を引き取り養育しました。元和8年(1622)5月9日没し、足立群大牧村(浦和市)の清泰寺に葬られました。平林寺にある宝篋印塔は、見性院が家康や鉄山禅師と懇意であったことから、のちに建立されたものです。【リード】@蔵造りの町並み 交差点・札の辻を新河岸川に北進します。東明寺(とうみょうじばし)橋を右折した50メートル先
@@
真行寺縁起
当寺の開基は遠く甲斐源氏の嫡流武田信虎を父とし、信玄の妹八重姫なり。当時戦乱を厭い若くして甲斐の片際に草庵を結び成就院至誠真行尼と号し、真言古義の行法を行う。時に石山本願寺第11世顕如上人の御簾中と兄信玄の夫人との姻戚を頼り、石山本願寺に至る。一旦故郷に帰りしも戦乱やまず。意を決し、武田一門の岩崎兵庫、若山主計を伴い、武州吉田村虫塚を経て川越に移り、苦難の後至誠山成就院真行寺を建立する。以来、武田一門の者川越を中心に街道沿いに落居す。第2世は武田勝頼の次男靖清(幼名:靖千代)この時に本願寺末寺となり、現在に至る。
■天文22(1553)年
戦乱を避け、岩崎兵庫、若山主計らと甲斐を出て、武州吉田村(松山と小川の間)へ。翌年川島虫塚へ移る。
■永禄2(1559)年
秋、川島を出て川越へ。真行寺の発祥となる庵を開く。
■天正元(1573)年
真行寺創建。
■天正10(1582)年
大晦日、武田勝頼の次男靖清(幼名靖千代)入寺。第2世となる。在世中に本願寺末寺となる。
■文禄3(1594)年
10月18日開基真行尼没。
■元和9(1623)年
10月08日第2世善西(靖清)大師没。
(お寺の方に頂いた資料から抜粋)
@@真行寺の概要
山号 至誠山
院号 成就院
寺号 真行寺
宗派 浄土真宗大谷派(お東さん)
創建 1559年(永禄2年)
本尊 阿弥陀如来
住所 〒350-0838 川越市宮元町1-2
バス 東武バス(神明町車庫行)10~20分。東明寺橋(とうみょうじばし)下車1分
【参考文献】
柳井賢治『真行尼物語』
川越市教育委員会『川越の人物誌』
【後記】
本稿作成にあたり、真行寺の20代・武田浩学 住職(『大智度論の研究』、文学博士)にお世話になりました。ありがとうございました。取材・文責は桑原政則、取材・写真は石山貞夫・文化財保護協会副会長です。本稿は、学術論文でないので、異説も含めました。
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