三鷹高次脳機能障害研究所長 関啓子氏(2) 脳卒中で障害、我こそ教材
2016/7/24 nk
「ああ、これは脳卒中だな」。神戸大学に勤務していた2009年7月、神戸市三宮の路上で倒れ込みながら、そう感じていた。
左足の力が抜け、目は右を向き、呼び掛けられても声が出ない。典型的な脳卒中の症状だった。
意識は鮮明で、救急車に乗せられてゆっくりと流れていく町の様子をはっきりと覚えている。そんな状況の中でも「これで当事者の気持ちや置かれている世界が本質的に理解できるのではないか」と考えていた。
運ばれた病院の治療が良かったので、その日のうちに再び声を出すことができた。6日後には受け答えができる状況まで回復した。その過程は全て映像や音声として残してある。
当時は言語聴覚士など専門職の教育に携わっており、「これは授業で使える資料になる」と思ったからだ。言語聴覚士が当事者になることはめったにない。
翌年に復職できたが、後遺症は残った。自分の左側が認識できなくなる半側空間無視の重い症状が出て、利き手の左手はまひして動かない。かつて講演や授業で立て板に水のように話せていたのに、頭の中ですらすらとは文章が構成できなくなった。
私の専門領域の症状が出たわけだ。言葉の通じない外国に一人きりで放り出されたような、寄る辺のない気持ちだった。相手の顔が見えず、言いたいことが伝わっているかが分かりにくい電話は今も苦手だ。
一方で病気にならなければ分からないことがたくさんあった。言語聴覚士は失語症の人にはイエスかノーかの二択で答えてもらう。だが「半分くらいイエス」などはうまく言い表すことができずもどかしい。まひするとなりやすい巻き爪の痛みを訴えられても、それまでは「ああ大変ですね」と言うだけだった。こんなに痛いものとは。
「発症前と今を比べないように」と常々語りかけてきたが、自分のこととなるとむなしさ、悲しさ、悔しさが募る。30年以上研究し、数多くの論文を書いた。数百人のリハビリにも携わってきた。だが今思えば、そんなことも分かっていなかったのだと申し訳なくなる。
当事者となって言語聴覚士の課題も見えてきた。解決するにはどうしたらよいのか。その思いは今運営している研究所の設立につながった。
脳の病気:脳梗塞。脳卒中。
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