2017/01/12

安部龍太郎が書きたかった「徳川家康」という男。 PRESIDENT

安部龍太郎が書きたかった「徳川家康」という男

PRESIDENT Online2017年01月02日

なぜ信長がわからないのかがわかった!

これまで『信長燃ゆ』や『蒼き信長』など、織田信長という戦国時代の英雄にこだわって小説を書いてきた。それは、私の中で「信長とは何者か?」という疑問がずっとあったからだ。わからないから、少しでも理解しようとして書く。30年近く、そんな作業を繰り返すことで、なぜ信長がわからないのかということがはっきりした。

原因は、織田信長を理解する前提となる歴史観の誤りである。それは、江戸時代に作られた“鎖国史観”にほかならない。徳川幕府は鎖国政策を採っていたから、戦国時代の記述を国内だけの覇権争いの物語にしてしまった。しかし、あの時代は日本が初めてヨーロッパと出会った大航海時代なのである。だから、信長の活躍も世界史的な視野で見なければわからない。

室町時代までの日本は、農業を国の基とし、各地の守護大名が領地と農民を支配する体制だった。だが、戦国末期には石見銀山の産出量が最盛期を迎え、シルバーラッシュを背景にしたポルトガル、スペインとの南蛮貿易がはじまった。良質の銀を輸出し、生糸や陶磁器などのほか鉄砲に使う硝石や鉛など輸入するという商品流通と貨幣経済の時代へと転換していったのである。

すなわち戦国時代は、世界を相手にした高度経済成長時代だったといっていい。信長が直面したのは、現在のグローバル化に通じる大変革への対応だった。幸い、織田家は信長の父・信秀の代から農業型の大名ではない。尾張の津島や熱田の港を拠点にした流通型の大名だった。そして、そこから上がる富を背景に勢力を拡大していった。その力を知る彼は“経済の覇者”たらんとして天下布武をめざし、それは完成目前だった。だが、彼は本能寺に斃れ、代わって豊臣秀吉が事業を受け継ぎ中央集権体制を敷く。

しかし、彼が晩年に決断した朝鮮出兵は大失敗に終わり、やがて秀吉が死ぬと、日本には再び乱世の兆しが現れる。そして、新しい政治体制の選択が最大の課題になっていく。「豊臣政権の政策をこのまま続けていこう」とする西国大名たちと「それではやっていけない。地方ごとに農業を盛んにし、領国を富ませていくべきだ」という家康を中心とした東国大名である。この2派の激突が、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いだった。

天才、切れ者、そして偉大な凡人、家康

「信長公黄葉まつり」で武者に扮した安部龍太郎氏。

天下分け目の一戦に勝利した家康は江戸幕府を開き、天下を安定させる。私は、信長を天才とするなら、秀吉は切れ者、家康は凡人だった気がする。およそ半世紀にわたる戦いを経て、長い戦乱の世に終わりをもたらした偉大なる凡人だ。そう見てみると、いま注目すべきは家康ではないかと考えるようになった。戦国物の集大成として、彼を描いてみたいと思った。

第一巻「自立編」は、家康が19歳のときから筆を起こした。彼は、2歳のときに実の母から引き離され、父も早くに失っている。そして、6歳からこの年齢まで尾張の織田、駿河の今川の人質として暮らさざるを得なかった。いつ殺されるかもわからない忍従の日々を過ごしていたのである。おそらく家康は、そのときに辛抱ということを学んだのだろう。用心に用心を重ね、処世の術を身につけたに違いない。

そんな雌伏の時代が、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで一変する。今川義元が信長の奇襲戦法に討たれると、家康はその混乱に乗じて、本拠地の岡崎へ戻り、今川と決別。信長との清州同盟を組んで、三河から遠江へと版図を広げていく。その間、信長が姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍を破った際には、徳川軍の働きが大いに勝利に貢献し、彼の武名も高まっていった。

人間的にも大きくなっていく。家康の成長を促したそのキーマンの1人が、徳川家菩提寺の住職を務めていた登誉上人である。彼は家康の師といっていい存在だ。家康が桶狭間の戦いの際、敵兵に負われて進退窮まったときのことである。切腹をしようとする家康に対し、登誉は「死んだつもりで、奪い合い、殺し合いのない世の中をめざせ!」と諭す。そして、白地に「厭離穢土欣求浄土」と墨書した旗を手渡した。

この旗は以後、常に徳川の本陣に高々と立てられる。穢い世間を離れ、清らか国を求めるという浄土宗の教えだが、家康にしてみれば「どうやったら戦争のない世の中を作れるのか」という一生のテーマを掲げた本陣旗だったろうと思う。それからの合戦は、自分のためではなく、この志を実現するためだった気がしてならない。

天下獲りのはじまりだった三方ヶ原
さて「自立編」のハイライトは、なんといっても三方ヶ原の戦いである。姉川の合戦から2年が過ぎた元亀3年(1572)。満を持して上洛の大軍を発した武田信玄は、富士川ぞいに進んで、徳川方の城を落としていく。ところが武田軍3万は、家康が居を構える浜松城はそのままに捨て置き、北に位置する三方ヶ原台地に進もうとする。しかし、家康にしてみれば、素通りを許せば末代までの恥辱でしかない。籠城を勧める重臣たちを前に、家康は「信長さまも家中の反対を押し切り、桶狭間に出陣して大勝利をおさめられた。勝ち負けは兵の多少によらず、天道次第だ!」と説き伏せ、乾坤一擲の野戦に討って出る。おそらく、彼の脳裏には桶狭間における信長の戦いぶりがよみがえっていたことだろう。

そこで私は、三方ヶ原の戦闘シーンを書くに当たり、浜松駅でレンタサイクルを借り、家康が進んだ道をたどってみた。三方ヶ原は天竜川と浜名湖の間に広がる台地である。周囲から少し隆起した形状になっていて、高さは30メートルぐらいだろうか。家康は手勢8000を率い、この台地を武田軍が下りる際に攻めかかろうとした。気づいた相手が反転すれば隊列に乱れが生じるので、そこを突けば勝機があると判断したに違いない。

だが、先に三方ヶ原に着陣していた武田の別働隊に襲われ、それを防いでいる間に本隊も反転してきて、家康は浜松城に逃げ帰るしかなかった。結局、信玄に挑んだものの無惨に敗れ、1000人以上の家臣たちを死なせてしまったのである。しかし、家康は、大きな犠牲の代わりに、律義で逃げない武将だとの信用を手に入れた。戦国時代という乱世では、それは何物にも代えがたい財産になる。

だから、ここからが家康の本当の天下獲りのはじまりだったかもしれない。信長、秀吉の在世には、織田勢が武田の騎馬隊を打ち倒す、長篠の合戦などに従軍しつつも、質実剛健な土地柄で知られる三河を中心に地道な領国経営を行い、虎視眈々と国力を蓄えていった。やがて秀吉の死後、きわどい外交戦や関ヶ原の戦いに勝って天下人となり、江戸幕府260年の平和の礎を築いていくのである。

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