渋沢栄一は女子教育、社会事業にも熱心
<大学、女子教育にも協力>
渋沢栄一は、教育機関にも協力しました。
教育に力を入れたのは、良い人材を育て日本全体を発展させるためです。
一橋大学、東京経済大学、東京女学館、日本女子大学の創立に深く関わりました。
二松学舎(にしょうがくしゃ)大学では理事長を務めました。なお1908年に創立者 三島 中洲(みしま ちゅうしゅう)との出会いで、自分の経済道徳観を「論語算盤」と位置づけました。
このほか、高千穂大学、早稲田大学などを支援したのである。
女子教育については、女子教育が広まれば良妻賢母が増えるからと考えたからのようです。
良妻や賢母、つまり知性と気品ある母親が家庭を守れば、
父親は家の心配なく社会で活躍でき、良い子が育つ考えからだと伝えられています。(杉山 里枝、「渋沢栄一から学ぶ次世代型CSRのヒント」)
東京女学館は、伊藤博文が女子高等教育の普及をめざし、発足させ、
栄一は資金面で尽力し、館長をつとめました。
日本女子大学は、女子高等教育の向上をめざし設立されました。
資金面でも協力し、第三代校長になりました。
<600の社会事業にたずさわる>
渋沢栄一は、600の社会事業にたずさわりました。ご時世柄、社会事業家としての人気が抜群です。
栄一は、 社会事業を通じて、富の再配分をし、社会がうるおい経済が循環するとした「道徳経済合一説」ということを唱えていました。
養育院(現 東京都健康長寿医療センター)が代表例です。
養育院は、身寄りのない子ども、老人、路上生活者や障害のある人などを救済する日本で最初の公立救貧施設でした。
1874年より関与し、院長に就任し、91歳で亡くなるまでおよそ60年間つとめました。
中央慈善協会、博愛社(日本赤十字社)、愛の家 などの設立にも携わりました。
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