2011/12/27

徳川家康:江戸幕府の創設者

徳川家康肖像画。大阪城天守閣
―1542年12月26日- 1616年6月1日、75歳  ―

徳川家康は、3歳の時、母が離別させられ、母と別れます。
6歳の時、今川の人質になるところを、織田側に奪われ、織田の人質となります。
8歳の時、捕虜の交換で、今川の人質となり、19歳まで今川の駿府で暮らします。
このように、6歳から19歳まで14年間、織田氏と今川氏の人質生活を送ります。

1560年、桶狭間(おけはざま)の戦いで、主君の今川氏が織田信長に敗れると、故郷の岡崎に戻ります。


徳川家康、三方原戦役像。徳川美術館
 1572年、武田軍との三方ヶ原(みかたがはら)の戦いで、完敗します。
命からがら城に逃げ戻ります。

その時の苦渋の半跏思惟像(はんかしいぞう)の姿を描かせたのが上の肖像です。
以降、折りにつけこの絵を見て自重します。

織田信長の傘下に入ります。
1579年、信長の命により長男・信康を自刃させます。
この痛恨事にあっても、信長との同盟関係を守ります。

1582年の本能寺の変までには、三河、駿河、遠江(とおとうみ)、甲斐を治める大大名になります。

1584年、信長の死後、全国統一をはかる豊臣秀吉と対立、小牧・長久手の戦いで引き分けます。

このあと秀吉の天下統一事業に協力します。


1590年豊臣秀吉の小田原平定後、関東へ移ることを命じられます。

関東8カ国を経営し最有力大名になりました。

1598年には豊臣秀吉がなくなります。

1600年、石田三成との関ヶ原の戦いに勝利します。

1603年江戸幕府を開きました。

1615年大阪夏の陣で豊臣氏をほろぼし天下を統一しました。
天下統一した翌1616年4月17日75歳で死去しました。

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★  鷹狩り好き

家康は鷹狩を好みました。
健康のためが大きな目的でした。

美食をさけ、玄米食、ミソを中心とする粗食に徹しました。

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★ 死因は胃がん

1616年1月21日、鷹狩のあと、タイの天ぷらを食べます。
夜半腹痛をきたし、原因はサナダ虫と自己診断し、自分で調合の薬を服用します。
病状は徐々に悪化し、4月2日には側近に死後の処置を指図します。
4月17日満74年の生涯を終えました。

家康の死因は、胃がんであったようです。
2代秀忠や孫の水戸光圀もがんでした。

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★ がまん強い家康

「鳴かぬなら  鳴くまで待とう  ホトトギス」

家康のがまん強さを形容する歌です。
1600年、家康は派遣を確立します。
それから豊臣家を滅亡に追い込むまで、15年待ちに待ちました。
58歳から73歳まで待ちました。
当時では、冥界に入っている年齢です。
今なら、80歳から95歳といったとことでしょうか。
豊臣家をなんとか存続させようとはかっていたのでしょうか。

秀忠の正室・お江は、淀君の妹です。
2代秀忠の初めての子供・千姫は、豊臣秀頼の正室になっていました。

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★ なぜ人気がない?

・家康は、天寿をまっとうしました。
・子孫も繁栄しました。
・人質生活もあり、用心深い性格でした。
・義理堅く、律儀でした。
・暴飲暴食を避け、健康管理に留意しました。
・悲劇的要素がありません。

こんなところがかえって人気の低い原因でしょうか。

★ 厭離穢土欣求浄土

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