徳川家康。江戸幕府を開き、260年間の平和を築く。6月1日没 <徳川家康、徳川家pg
徳川家康肖像画。大阪城天守閣 |
6歳の時、今川の人質になるはずを、織田側に奪われ、
織田の人質となります。
8歳の時、捕虜交換で、今川義元の人質となり、
19歳まで今川の駿府で暮らします。
このように、
6歳から19歳まで14年間、織田氏と今川氏の人質生活を送ります。
「浜松を捨てるなら、武士を止める」と断固拒否
浜松は、スズキ、ヤマハ、ホンダ、カワイの発祥の地
1560年19歳の時に、桶狭間(おけはざま)の戦いで、
主君の今川氏が織田信長に敗れると、
故郷の岡崎に戻ることができました。
1600年、家康は覇権を確立します。
パクス・トクガワーナとは、「徳川による平和」のことです。
★ 厭離穢土 欣求浄土 (おんりえど ごんぐじょうど)
穢(けが)れたこの世(=穢土)を厭(いと)い、
浄土を欣求(ごんぐ。よろこびねがう)すること。
徳川家康が旗印に使っていたことば
浜松は、スズキ、ヤマハ、ホンダ、カワイの発祥の地
1560年19歳の時に、桶狭間(おけはざま)の戦いで、
主君の今川氏が織田信長に敗れると、
故郷の岡崎に戻ることができました。
徳川家康 半跏思惟像(はんかしいぞう、しかみ像)、三方原戦役像。徳川美術館 |
三方ヶ原の戦い |
1572年30歳、
武田軍との三方ヶ原(みかたがはら)の戦い
で、完敗します。
命からがら城に逃げ戻ります。
その時の苦渋の半跏思惟像(はんか しいぞう)の姿を描かせたのが上の肖像です。
以降、折りにつけこの絵を見て自重します。
1579年、織田信長の命により
自分の長男・松平信康を自刃させます。
この痛恨事にあっても、信長との同盟関係を守ります。
1582年の本能寺の変までには、
三河、駿河、遠江(とおとうみ)、甲斐を治める大大名になります。
※ 遠江(とおとうみ)
都に近い海・琵琶湖に対し、
都に遠い海 ・浜名湖 のある国のこと
1584年42歳、信長の死後、全国統一をはかる豊臣秀吉と対立、
小牧・長久手の戦いで引き分けます。
このあと秀吉の天下統一事業に協力します。
1590年48歳、豊臣秀吉の小田原平定後、
関東へ移ることになります。
関東8カ国を経営し最有力大名になります。
1598年には豊臣秀吉がなくなります。
1600年58歳、石田三成との関ヶ原の戦いに勝利します。
1603年江戸幕府を開きました。
1615年大阪夏の陣で豊臣氏をほろぼし天下を統一しました。
天下統一した
翌1616年4月17日75歳で死去しました。
* * *
★ 鷹狩り好き
家康は鷹狩を好みました。
健康のためが大きな目的でした。
川越方面へたびたびまいりました。
喜多院の天海が師でした。
美食をさけ、玄米食、ミソを中心とする粗食でした。
* * *
★ 死因は胃がん
1616年1月21日、鷹狩のあと、鯛の天ぷらを食べます。
家康の死因は、胃がんであったようです。
2代秀忠や孫の水戸光圀もがんでした。
* * *
★ がまん強い家康
< 鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス >
家康のがまん強さを形容するうたです。
武田軍との三方ヶ原(みかたがはら)の戦い
で、完敗します。
命からがら城に逃げ戻ります。
その時の苦渋の半跏思惟像(はんか しいぞう)の姿を描かせたのが上の肖像です。
以降、折りにつけこの絵を見て自重します。
1579年、織田信長の命により
自分の長男・松平信康を自刃させます。
この痛恨事にあっても、信長との同盟関係を守ります。
1582年の本能寺の変までには、
三河、駿河、遠江(とおとうみ)、甲斐を治める大大名になります。
※ 遠江(とおとうみ)
都に近い海・琵琶湖に対し、
都に遠い海 ・浜名湖 のある国のこと
徳川の版図 |
1584年42歳、信長の死後、全国統一をはかる豊臣秀吉と対立、
小牧・長久手の戦いで引き分けます。
このあと秀吉の天下統一事業に協力します。
1590年48歳、豊臣秀吉の小田原平定後、
関東へ移ることになります。
関東8カ国を経営し最有力大名になります。
1598年には豊臣秀吉がなくなります。
1600年58歳、石田三成との関ヶ原の戦いに勝利します。
1603年江戸幕府を開きました。
1615年大阪夏の陣で豊臣氏をほろぼし天下を統一しました。
天下統一した
翌1616年4月17日75歳で死去しました。
* * *
★ 鷹狩り好き
家康は鷹狩を好みました。
健康のためが大きな目的でした。
川越方面へたびたびまいりました。
喜多院の天海が師でした。
美食をさけ、玄米食、ミソを中心とする粗食でした。
* * *
★ 死因は胃がん
1616年1月21日、鷹狩のあと、鯛の天ぷらを食べます。
家康の死因は、胃がんであったようです。
2代秀忠や孫の水戸光圀もがんでした。
* * *
★ がまん強い家康
< 鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス >
家康のがまん強さを形容するうたです。
【cf.】
「鳴かぬなら殺してしまえほととぎす」織田信長
「鳴かぬなら殺してしまえほととぎす」織田信長
「鳴かぬなら鳴かせてみせようほととぎす」豊臣秀吉
1600年、家康は覇権を確立します。
それから豊臣家を滅亡に追い込むまで、15年待ちに待ちました。
58歳から73歳まで待ちました。
58歳から73歳まで待ちました。
当時では、冥界(めいかい)に入っている年齢です。
今なら、90歳から95歳といったとことでしょうか。
2代 秀忠と正室・お江(ごう)の間には
千姫が生まれ、千姫は豊臣秀頼の正室になっています。
* * *
★ 徳川家康をこきおろす薩長政府
・家康は、天寿をまっとうしました。
・子孫も繁栄しました。
・人質生活もあり、用心深い性格でした。
・義理堅く、律儀でした。
・暴飲暴食を避け、健康管理に留意しました。
・悲劇的要素がありません。
明治新政府はクーデター政権だったため、
今なら、90歳から95歳といったとことでしょうか。
2代 秀忠と正室・お江(ごう)の間には
千姫が生まれ、千姫は豊臣秀頼の正室になっています。
* * *
★ 徳川家康をこきおろす薩長政府
・家康は、天寿をまっとうしました。
・子孫も繁栄しました。
・人質生活もあり、用心深い性格でした。
・義理堅く、律儀でした。
・暴飲暴食を避け、健康管理に留意しました。
・悲劇的要素がありません。
明治新政府はクーデター政権だったため、
「悪しき旧政権」の創設者 家康を、
明治以降 容赦なくこき下ろします。
明治以降 容赦なくこき下ろします。
★ シェークスピアも徳川家康と同じ1616年没
★ パクス・トクガワーナ(徳川による平和、Pax Tokugawana)
パクス・トクガワーナとは、「徳川による平和」のことです。
パクス・ロマーナとは、 紀元前後200年間の「ローマによる平和」のことです。
【名言】
「堪忍は無事 長久のもと、怒りは敵と思え」
「大事を成し遂げようとする者は、本筋以外のことはすべて荒立てず、なるべく穏便にすますようにせよ」
「人間は、健康でありすぎたり、得意すぎたりする時にも警戒を要するのだが、疲れたおりの消極性もまた厳に戒めなければならない」
★ 厭離穢土 欣求浄土 (おんりえど ごんぐじょうど)
穢(けが)れたこの世(=穢土)を厭(いと)い、
浄土を欣求(ごんぐ。よろこびねがう)すること。
徳川家康が旗印に使っていたことば
【受験】徳川家康
1600年、天下分け目の戦い・関ヶ原の戦いに勝利し、
1603年に征夷大将軍となり、江戸幕府を開きました。
1603年に征夷大将軍となり、江戸幕府を開きました。
愛知県・三河出身の戦国大名です。
1615年豊臣家を滅亡に追い込みました。
「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ほととぎす」で有名。
* * *