聖徳太子。日本を天皇中心の国にする。飛鳥文化。仏教をさかんに
聖徳太子。日本を天皇中心の国にする。飛鳥文化。仏教をさかんに
厩戸皇子は、高句麗からの高僧・慧慈(えじ)に学びました。
さらに、多くの渡来人を斑鳩宮(いかるがのみや)に集め、最先端の文化技術を吸収しました。
607年、廐戸皇子は第2回目の遣隋使を派遣、随の皇帝と対等な国交を結びました。
後世の日本人は、血塗られた天智天皇(てんじてんのう、中大兄皇子、なかのおおえのおうじ、 )よりも、
厩戸皇子集団を聖徳太子ひとりに集約し、
聖徳太子を誇るべき日本人として心に刻むようになりました。
聖徳太子関連年表
574 厩戸皇子、天皇の子として生まれる
601 斑鳩宮(いかるがのみや)造営開始
603 冠位十二階を定める
643 蘇我入鹿が山背大兄王を襲撃
十七条憲法
※各項目は、一部抜粋です。
※一条と一七条で、正義ではなく、話し合い、和を重視していることに注意。
一条 【和】
和を貴(たっと)び、人にさからうことのないよう心がけよ。
二条 【仏教】
三宝(さんぼう)をあつく敬え。
三宝とは、仏像・経典・僧侶である。
三条 【天皇】
天皇の命令である詔を受けたなら、かならずつつしんでしたがうように。
君主こそ天であり、臣は地である。
四条
官吏は礼を基本とし、人民を統治する基本は礼である。
五条
美食や財貨への欲求にもとづく賄賂を受けることなく、公明公正に訴訟をさばくこと。
七条
官吏は、各任務があるので、職務をあやまらないようにせよ。
八条
官吏は早く出勤して仕事をし、おそく退出せよ。
十二条
国司(くにのみこともち)や国造(くにのみやっこ)は百姓(おおみたから)からかってに税をとってはならない。
国に二人の君はありえず、人民に二人の主はないと心得よ。
十三条
官吏たちは、自分の職掌をよく承知せよ。
十四条
官吏は、嫉妬の気持ちをもってはならない。
十五条
私心をさって公につくすことは、臣民の道である。
十七条
重大なことがらを決定するには、独断で決めてはならない。
かならず人々とよく議論をつくすべきである。 (『学研)』)
一七条憲法 全文
【cf.】2012/01 NHK。他
(※)天智天皇 (中大兄皇子、なかのおおえのおうじ)
645年、藤原鎌足(ふじわらのかまたり、中臣、なかとみの)とはかって蘇我氏をたおし、大化の改新をおこないました。
百済(ペクチェ)をすくうために朝鮮に出兵しましたが、白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)で唐・新羅(シルラ)連合軍に大敗しました。
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| 聖徳太子を描いたとされる肖像画 |
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| 聖徳太子の頃の高句麗 ※wp |
・574年2月7日~622年4月8日。49歳
【1分】聖徳太子 NHK
聖徳太子は、20歳で33代 推古天皇(女性天皇。聖徳太子のオバ)を助け、
豪族たちの争いばかりの日本を天皇中心の政治につくりかえました。
いまから1400年以上前のことです。
そのころ日本は、高句麗、新羅、百済に振り回されていました。
日本は、安定した外交を求めて、随との国交を求めました。
600年、小野妹子(おの の いもこ。男性)を隋の国に送り、学ばせました。
「遣隋使」 「飛鳥(あすか)文化」
「遣隋使」 「飛鳥(あすか)文化」
※ 外国に派遣は優れた制度
外国から学ぶために人を派遣するというのは、すぐれた日本の制度です。
岩倉使節団は、1871年(明治4年)から政府の要人100名以上が2年間米欧を訪ねています。このようなことをどこの国ができるでしょうか?
岩倉使節団は、1871年(明治4年)から政府の要人100名以上が2年間米欧を訪ねています。このようなことをどこの国ができるでしょうか?
冠位十二階で有能な人物を役人にしました。
十七条憲法で豪族や役人の心がまえを説きました。
仏教をさかんにするために、四天王寺や法隆寺を建てました。
【1分】聖徳太子 NHK
厩戸皇子は、高句麗からの高僧・慧慈(えじ)に学びました。
さらに、多くの渡来人を斑鳩宮(いかるがのみや)に集め、最先端の文化技術を吸収しました。
607年、廐戸皇子は第2回目の遣隋使を派遣、随の皇帝と対等な国交を結びました。
後世の日本人は、血塗られた天智天皇(てんじてんのう、中大兄皇子、なかのおおえのおうじ、 )よりも、
厩戸皇子集団を聖徳太子ひとりに集約し、
聖徳太子を誇るべき日本人として心に刻むようになりました。
聖徳太子関連年表
574 厩戸皇子、天皇の子として生まれる
574年は、ウマ年。厩戸(うまやと)というところで生まれたとも。593 推古天皇の補佐に
女帝・推古天皇は、厩戸皇子のオバ。「摂政」の役職はこの当時はなかったとも。600 第1回遣隋使失敗
601 斑鳩宮(いかるがのみや)造営開始
603 冠位十二階を定める
能力主義で人材を抜擢。604 十七条の憲法を定める
日本最初の成文法。最先端の学問・仏教を人心を束ねる柱として導入。国家公務員法。複数の人がかかわって書き換え。607 第2回遣隋使
随は高句麗に手を焼いていました。598年高句麗は中国に侵攻します。随の皇帝・煬帝(ようだい)は、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」との侮辱的な書を受け取りながら、対等の外交に踏み切らざるを得ませんでした。622 厩戸皇子死去
643 蘇我入鹿が山背大兄王を襲撃
山背大兄王(やましろのおおえのおう)は、聖徳太子の子。聖徳太子一族の血統は絶えます。645 乙巳(いっし)の変で蘇我入鹿暗殺さる
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、 天智天皇)、中臣鎌足が、蘇我一族(蝦夷、入鹿)を滅ぼす。それまでは皇族と蘇我氏は協力関係。これで蘇我氏は逆賊にされ、中大兄皇子が善玉に。645 大化の改新
豪族を天皇の下に置き、天皇を頂点とした国家へ変える改革720 日本書紀完成
日本書紀は、天皇を教育するために編まれたもの。廐戸皇子が亡くなってから100年後に完成。
十七条憲法
※各項目は、一部抜粋です。
※一条と一七条で、正義ではなく、話し合い、和を重視していることに注意。
一条 【和】
和を貴(たっと)び、人にさからうことのないよう心がけよ。
二条 【仏教】
三宝(さんぼう)をあつく敬え。
三宝とは、仏像・経典・僧侶である。
三条 【天皇】
天皇の命令である詔を受けたなら、かならずつつしんでしたがうように。
君主こそ天であり、臣は地である。
四条
官吏は礼を基本とし、人民を統治する基本は礼である。
五条
美食や財貨への欲求にもとづく賄賂を受けることなく、公明公正に訴訟をさばくこと。
七条
官吏は、各任務があるので、職務をあやまらないようにせよ。
八条
官吏は早く出勤して仕事をし、おそく退出せよ。
十二条
国司(くにのみこともち)や国造(くにのみやっこ)は百姓(おおみたから)からかってに税をとってはならない。
国に二人の君はありえず、人民に二人の主はないと心得よ。
十三条
官吏たちは、自分の職掌をよく承知せよ。
十四条
官吏は、嫉妬の気持ちをもってはならない。
十五条
私心をさって公につくすことは、臣民の道である。
十七条
重大なことがらを決定するには、独断で決めてはならない。
かならず人々とよく議論をつくすべきである。 (『学研)』)
一七条憲法 全文
【cf.】2012/01 NHK。他
(※)天智天皇 (中大兄皇子、なかのおおえのおうじ)
645年、藤原鎌足(ふじわらのかまたり、中臣、なかとみの)とはかって蘇我氏をたおし、大化の改新をおこないました。
百済(ペクチェ)をすくうために朝鮮に出兵しましたが、白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)で唐・新羅(シルラ)連合軍に大敗しました。
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【cf.】『常識逆転!の日本史』 NHK BS歴史館

