2013/04/05

聖徳太子とは、厩戸皇子(うまやどのみこ)らからなる集団のこと

聖徳太子を描いたとされる肖像画
 聖徳太子の頃の高句麗  ※wp
教科書では、聖徳太子架空説が盛んです。
清水書院の教科書では、
冠位十二階、憲法十七条は聖徳太子の実績とは断定できない。
肖像画も「聖徳太子像」とする根拠がない。
としています。

「聖徳太子」の尊称(追号)は、平安時代から広く用いられました。

◇                    ◆                    ◇

厩戸皇子(うまやどのみこ)のころの日本は、天皇や豪族たちが争う混沌期でした。
天皇に強い力はありませんでした。
混沌日本を初歩の国家にしたのが、厩戸皇子集団(=聖徳太子)です。

厩戸皇子(うまやどのおうじ)は、20歳の時、推古天皇の摂政(代理)となり、蘇我馬子と協調しながら政治をおこないました。
蘇我氏は、当時の先端科学・仏教を信奉していた渡来系の人々でした。

そのころ日本は、高句麗、新羅、百済に振り回されていました。
日本は、安定した外交を求めて、随との国交を求めました。

600年遣隋使が随を訪れます。
遣隋使は相手にされませんでした。
すべてがあまりに未熟で、国書さえ持参してませんでした。

厩戸皇子は、高句麗からの高僧・慧慈(えじ)に学びました。
さらに、多くの渡来人を斑鳩宮(いかるがのみや)に集め、最先端の文化技術を吸収しました。

607年、廐戸皇子は第2回目の遣隋使を派遣、随の皇帝と対等な国交を結びました。

後世の日本人は、血塗られた天智天皇(てんじてんのう、中大兄皇子、なかのおおえのおうじ、 )よりも、
厩戸皇子集団を聖徳太子ひとりに集約し、
聖徳太子を誇るべき日本人として心に刻むようになりました。


聖徳太子関連年表

574    厩戸皇子、天皇の子として生まれる
574年は、ウマ年。厩戸(うまやと)というところで生まれたとも。
593    推古天皇の補佐に
女帝・推古天皇は、厩戸皇子のオバ。「摂政」の役職はこの当時はなかったとも。
600    第1回遣隋使失敗
601    斑鳩宮(いかるがのみや)造営開始
603    冠位十二階を定める
能力主義で人材を抜擢。
604    十七条の憲法を定める
日本最初の成文法。最先端の学問・仏教を人心を束ねる柱として導入。国家公務員法。複数の人がかかわって書き換え。
607    第2回遣隋使
随は高句麗に手を焼いていました。598年高句麗は中国に侵攻します。随の皇帝・煬帝(ようだい)は、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」との侮辱的な書を受け取りながら、対等の外交に踏み切らざるを得ませんでした。
622    厩戸皇子死去
643    蘇我入鹿が山背大兄王を襲撃
山背大兄王(やましろのおおえのおう)は、聖徳太子の子。聖徳太子一族の血統は絶えます。
645    乙巳(いっし)の変で蘇我入鹿暗殺さる
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、 天智天皇)、中臣鎌足が、蘇我一族(蝦夷、入鹿)を滅ぼす。それまでは皇族と蘇我氏は協力関係。これで蘇我氏は逆賊にされ、中大兄皇子が善玉に。
645    大化の改新
豪族を天皇の下に置き、天皇を頂点とした国家へ変える改革
720   日本書紀完成
日本書紀は、天皇を教育するために編まれたもの。廐戸皇子が亡くなってから100年後に完成。

十七条憲法

※各項目は、一部抜粋です。
※一条と一七条で、正義ではなく、話し合い、和を重視していることに注意。

一条   【和】
和を貴(たっと)び、人にさからうことのないよう心がけよ。

二条   【仏教】
三宝(さんぼう)をあつく敬え。
三宝とは、仏像・経典・僧侶である。

三条  【天皇】
天皇の命令である詔を受けたなら、かならずつつしんでしたがうように。
君主こそ天であり、臣は地である。

四条
官吏は礼を基本とし、人民を統治する基本は礼である。

五条
美食や財貨への欲求にもとづく賄賂を受けることなく、公明公正に訴訟をさばくこと。

七条
官吏は、各任務があるので、職務をあやまらないようにせよ。

八条
官吏は早く出勤して仕事をし、おそく退出せよ。

十二条
国司(くにのみこともち)や国造(くにのみやっこ)は百姓(おおみたから)からかってに税をとってはならない。
国に二人の君はありえず、人民に二人の主はないと心得よ。

十三条
官吏たちは、自分の職掌をよく承知せよ。

十四条
官吏は、嫉妬の気持ちをもってはならない。

十五条
私心をさって公につくすことは、臣民の道である。

十七条
重大なことがらを決定するには、独断で決めてはならない。
かならず人々とよく議論をつくすべきである。 (『学研)』)

一七条憲法  全文

【cf.】2012/01  NHK。他

(※)天智天皇 (中大兄皇子、なかのおおえのおうじ)
645年、藤原鎌足(ふじわらのかまたり、中臣、なかとみの)とはかって蘇我氏をたおし、大化の改新をおこないました。

百済(ペクチェ)をすくうために朝鮮に出兵しましたが、白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)で唐・新羅(シルラ)連合軍に大敗しました。