浅野七之助 <盛岡市 |
1993年3月6日
岩手県の盛岡は偉人賢人を輩出しています。
「盛岡市先人記念館」には
新渡戸稲造(にとべ いなぞう)、
米内光政(よない みつまさ)、
金田一京助
をはじめ130人ほどの先人たちの遺品や資料が展示されています。
宮沢賢治、
石川啄木、
野村胡堂
も盛岡人です。
「盛岡市先人記念館」にはわたしたち世代の命の恩人・浅野七之助さんも展示されています。
◇ ◆ ◇
1944年、4歳のわたし(桑原政則)は、焼け野原となる東京を逃れて、兄とふたりで三重県松坂の片田舎へあずけられました。汽車で10時間以上かかりました。
東京からイナカのイナカになれるのは大変でした。
関西弁の土地なので、東京弁もからかわれました。
小津安二郎監督の住んでいた村です。
1946年には三重県の津に移り、小学校に入りました。
教室が足りないので、2部授業でした。
廊下が教室代わりにもなりました。
窓ガラスはなく、代用ガラス(網戸にのりをはったもの)でしたので、廊下と教室の声はつつぬけでした。
1年生のガリ版刷りの国語の教科書は「アカイ アカイ アサヒ」とカタカナで記されていました。
当時は漫画もカタカナでした。
【※】@@@
蝶々は「テフテフ」でした。
2年になって突然ひらがなの教科書になりました。
今まではずっとカタカナで育っていました。
しかし、カタカナは軍国主義を助長するからとのことでひらがなに変えられてしまいました。
文字が変わり、外国人になったような気がしました。
学校は午前で終わったり、午後から始まったりでした。
その時々で来ない者も多くいました。
食べるものがありませんでした。
栄養失調で動けませんでした。
しかし、ある時から学校がみんなにとって楽しみに変わりました。
無料給食が始まったのでした。
さいころ4つ分ぐらいの分厚いチョコレートが出たことがありました。
コッペパン、ミルクが出るようになったのです。
天国降臨です。
ある者は、給食時間にだけ学校にきたりしました。
それまでは、登下校の途中で草花、虫、野菜、芋や木の根ですきっ腹をいやしていました。
米、イモなど食べるものはありませんでした。
(わたしたちが下の世代よりも身長が10センチ低いのはこのためです)
わたしたちの学校を天国にしてくださったのが、原敬の書生をして、アメリカに渡った浅野七之助さんです。
浅野さんの「ララ物資」でわたしたち児童は、学校が好きになり、体力を維持できました。
浅野さんはわたしたちの世代の恩人です。
ミルクもコッペパンも何もかもおいしかったです。
たくさんの仲間の命がつながりました。
ありがとうサマ、浅野さま。
盛岡市先人記念館
The secret of January 22 - Curry Day (カレーの日)
【追1】
今「川越の先人」たちの小伝をまとめています。
今回は、柿本人麻呂、円仁、相原 求一朗、田部井 淳子です。
何回も通った「盛岡市先人記念館」などが参考になりました。
(2019/03/04)
【追2】
わたしたちのキョウーダイは、5-6人がふつうでした。
お国が親に「生みなさい」といったからでした。
戦後は「日本が貧しいのは人口が多すぎるからである」といわれました。
今は、「生まないから日本は滅びの道を走っている」とおどされています。
メディアなどは、「英語を話せ。海外で稼げ」とあおっています。
日本は進んだ大国です。
日本一国で西欧全体に匹敵します。
<※ このことを、梅棹忠夫先生が、わたしの学生時代から唱えていました。>
普通の日本人がなすべきことは、自分のいるところを深く掘り続けることです。
それがグローバリズムにつながります。