第3回 聖徳太子~新しい国づくり~
「和を以って貴しと為す」
聖徳太子は二十歳で、天皇の政治をたすける「摂政(せっしょう)」という役職に就きました。
聖徳太子は、天皇中心の国をつくろうとします。
「十七条の憲法」という役人の心構えをまとめました。
その第一条、「和を以(も)って貴(たっと)しと為(な)す」。
幼いころから聡明だった聖徳太子
1400年前、聖徳太子は天皇中心の新しい国づくりをめざしました。
当時の政治の中心地は飛鳥(あすか)、奈良県明日香村(あすかむら)にありました。
聖徳太子はここで、用明(ようめい)天皇の息子として、天皇家の未来を担って生まれました。
天皇中心の新しい国づくりを
当時の日本は、「豪族(ごうぞく)」とよばれる有力者が土地や人々を支配し、勢力争いをくりかえしていました。
そこで聖徳太子は、有力な豪族の蘇我**(そが)氏とともに、争いをくりかえしている豪族たちを一つにまとめ、天皇中心の新しい国づくりをめざしました。
「冠位十二階」の制定
聖徳太子は603年に「冠位(かんい)十二階」を考えました。
冠位十二階の制度は、家柄にはとらわれませんでした。能力や功績によって、十二の位に分けられたのです。
「十七条の憲法」の制定
聖徳太子は、役人たちの心構えを定めました。
それが、604年に定められた「十七条の憲法」です。
どんな内容が書かれているかというと、たとえば「あまり怒(おこ)ってはいけません」。
「他人を恨(うら)んだり妬(ねた)んだりしてはいけません」ともあります。
いつの時代でも通じる、大切なことが書かれていました。
摂政となり、新しい国の制度をつくった
太子が重視していたのが、権力争いに明け暮れる豪族(ごうぞく)たちをいましめることでした。
それは、十七条の憲法の一番目に書かれています。『和を以(も)って貴(たっと)しと為(な)す』。
こうして太子は豪族たちをまとめ、新しい国づくりを始めたのです。
遣隋使を送り、隋との交流が始まった
その時代、強い力と進んだ文化を持っていた国が、隋(ずい)です。
607年、隋につかいを送りました。
このつかいを「遣隋使(けんずいし)」といい、小野妹子(おののいもこ)が選ばれました。
妹子が隋の皇帝にわたした手紙には、日本が新しい国に生まれ変わった誇りがこめられていました。
「日がのぼる国の天子より、日がしずむ国の天子へ手紙を送ります」。
日本と隋は対等だというこの手紙に、隋の皇帝は「無礼だ!」とおこりました。
しかしその後、正式な使者を日本に送り、日本と隋の交流が始まりました。
人々の暮らしも支えた太子
太子は人々の暮らしも支えました。
病にかかった人を救う病院や、無料で薬を分けあたえる薬局、身寄りをなくした人に生活の場をあたえる施設などをつくったといわれます。
そして622年、太子はとつぜん病にたおれます。治ることなく、ひと月後の2月に、49歳(さい)でなくなりました。
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