第36回 福沢諭吉~文明開化~
■ scene 01 学問の大切さを説いた教育者
『天は人の上に人をつくらず 人の下に人をつくらず』。
これは、「人はみな平等である」という意味。
この言葉を説いた明治時代の教育者、福沢諭吉は、日本にいち早く西洋の文化や考え方を伝えました。
現在の一万円札にえがかれている肖像画(しょうぞうが)が、福沢諭吉です。
福沢諭吉は学問の大切さをみんなに説きました。
■ scene 02 まず英語を学ぶ
およそ150年前、福沢諭吉は西洋の文化や考え方を広く日本に伝えました。
開国とともに、日本には西洋の文化が一気に流れこんできました。
横浜や神戸などには外国人の姿が目立つようになります。
福沢諭吉は横浜を訪れた経験から、西洋文化を理解するには英語を学ぶことが大切だと気づきました。
そして、いち早く英語を勉強した諭吉に大きなチャンスが訪れます。
■ scene 03 アメリカでの見聞
江戸幕府の咸臨丸(かんりんまる)で、アメリカに行くことができたのです。
諭吉はアメリカ西海岸の町、サンフランシスコを訪れました。
そこで、日本とはまったくちがう生活を目にします。
たとえば、男性が女性を大切にする“レディ・ファースト”という習慣に大きな衝撃(しょうげき)を受けました。
帰国後、「まるで日本とアベコベ」と本に記しています。
■ scene 04 西洋の国から学んだこと
アメリカへ行った翌年、諭吉はヨーロッパに行く使節団にも加わり、イギリスなどいろいろな国を見て回りました。
イギリスの議会を見学したときのおどろきをこう書きのこしています。
「対立する二つの政党が政治のことで喧嘩(けんか)をしている。
なのに、議会が終わると、同じテーブルで酒をくみかわし、食事をしている」。
議会では自分の考えをぶつけあい、議論が終われば仲間としてつきあう。
このように、意見の異なる人たちを尊重する精神を、諭吉は西洋の国から学びました。
■ scene 05 ドキリ★『西洋事情』で西洋の文化や考え方を広めた
帰国後、諭吉は『西洋事情』を出版。
自分の目で見た西洋の様子を、10巻にわたり、くわしく記しました。
この本には、政治や議会など国の基本となる仕組みをはじめ、学校や新聞、病院といった西洋のさまざまな文化が紹介(しょうかい)されています。
福沢諭吉は『西洋事情』で、西洋の文化や考え方を広めました。
■ scene 06 慶應義塾を開く
福沢諭吉は教育にも力を注ぎました。
1858年、諭吉は自分の財産をつぎこみ、塾(じゅく)を開きます。
のちの慶應義塾(けいおうぎじゅく)です。
この塾には、身分に関係なく学問を志す人たちが集まり、教育を受けました。
江戸の町で新政府軍と旧幕府軍が戦ったとき、大砲(たいほう)の音がひびくなかでも諭吉は講義を続けます。
そして塾生たちに、世の中で何が起ころうとも学ぶことをやめてはいけないと説いたといわれています。
■ scene 07 ドキリ★『学問のすゝめ』で学問の大切さを説いた
明治時代、服装や食べ物、建築など、西洋文化が日本中に広まりました。
これを「文明開化」といいます。
日本の暮らしが大きく変わるなかで、諭吉は学問の大切さを人々に広めようとしました。
そこで書いたのが『学問のすゝめ』です。
その中で諭吉は、「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず」「一身独立して一国独立する」と説いています。
人間はみな平等であり、それぞれの国民が自立してこそ国は一人立ちする。
そして、国民一人ひとりが自立するには、学問でさまざまな知識を身に付けることが重要であるとうったえたのです。
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