第40回 夏目漱石・樋口一葉~明治時代の文学~

第40回 夏目漱石・樋口一葉~明治時代の文学~

■ scene 01 『吾輩は猫である』の作者

夏目漱石は、大学の教師を辞めて新聞社に転職し、本格的に小説家としての歩みを始めました。
『吾輩(わがはい)は猫(ねこ)である』、『坊(ぼ)っちゃん』などの作者です。


■ scene 02 日本を代表する小説家

夏目漱石は、今から100年ほど前に活躍(かつやく)した、日本を代表する小説家です。
大学で英文学を学んだ漱石は、卒業後、中学校の英語教師として愛媛県松山市に赴任(ふにん)します。
このころ、漱石は松山出身の俳人・正岡子規と交流を深めます。
子規から俳句を習うなど大きな影響(えいきょう)を受けた漱石。
この出会いは、小説家・夏目漱石誕生のきっかけになりました。


■ scene 03 イギリス留学を機に

1900年、漱石は、国からの要請(ようせい)でイギリスのロンドンに留学します。
英文学の研究に没頭(ぼっとう)する漱石でしたが、一方で、明治維新(いしん)以来、西洋のまねばかりしている日本に疑問を持つようになります。
「日本は真に目が醒(さ)めねばダメだ」(当時の日記より)。
うわべだけでなく、日本人としてどうあるべきか。
留学は、漱石にとって、日本を、そして自分を見つめ直す機会になります。


■ scene 04 一躍ベストセラー作家に

帰国後、漱石は大学で英文学を教えるかたわら、小説を書き始めます。
漱石の初めての作品、『吾輩は猫である』。
猫の視点で、当時の日本人の文化や暮らしをユーモラスに風刺(ふうし)をこめてえがき、大評判になりました。
その冒頭(ぼうとう)――
「吾輩は猫である。
名前はまだ無い。
どこで生まれたか頓(とん)と見当がつかぬ…」。
さらにその翌年、松山での教師体験をもとにした『坊(ぼ)っちゃん』もヒットし、漱石は一躍(いちやく)、ベストセラー作家となります。


■ scene 05 「いかに生きるか」という苦悩をえがく

40歳(さい)のとき、漱石は勤めていた大学を辞めて新聞社に転職。
本格的に小説家としてデビューします。
何か書かないと生きている気がしないのである」。
その後も漱石は、『三四郎』、『それから』、『心』など次々と作品を発表します。
これらの作品でえがかれたのは、近代化で変わりゆく明治の世で、いかに生きるか苦悩(くのう)する人物です。
漱石の小説は激動の時代に生きた多くの読者から深い共感をよび、世代をこえて読みつがれていきます。


■ scene 06 ドキリ★明治の文学界をリードした

漱石を慕(した)って、漱石の家には小説家を志す者や学者など、多くの弟子が集まりました。
“漱石山脈”といわれるはば広い人脈のなかには、『羅生門(らしょうもん)』などで知られる芥川龍之介の姿もありました。
漱石は、日本人の生き方をするどく見つめた小説で、明治の文学界をリードしました。


■ scene 07 若くして認められた文才

漱石と同じ時代に生きた女流小説家、樋口一葉。
一葉は十代のころから和歌や詩歌の勉強にはげみ、文才を認められました。
しかし、一葉が17歳(さい)のとき父親が亡くなり、一家は貧しい生活を強いられます。
そんななかでも一葉は小説を書き続けました。
あるとき、一家は多くの女性たちが働く飲食店街の近くに引っこします。
読み書きのできない彼女(かのじょ)たちに代わって手紙を書く一葉。
そうしたふれあいを通じて、貧しさのなかで働く女性たちの苦しみや悲しみを知ります。


■ scene 08 ドキリ★明治の庶民の感情をありのままにえがいた

その体験から生まれたのが、一葉の代表作『にごりえ』です。
夢も希望も持てない日々を生きる女性のやりきれない思いを、一葉は一字一句にきざみこみます。
「これが一生か、一生がこれか、ああ嫌(いや)だ嫌だ…」。
はき出されるありのままの感情。
それは、日々をけんめいに生きる一葉自身の心のさけびでもありました。
苦しみ、悲しむ人々を、自分が書く小説でなぐさめたい。
小説家として歩み始めた一葉でしたが、病気により、24歳(さい)の若さでこの世を去ります。

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