第21回 徳川家康~戦国から江戸へ~
■ 関ヶ原の戦いを制し江戸幕府を開いた
ときは、西暦1600年。
今の岐阜県関ヶ原。
天下をめぐって、徳川家康と石田三成が激突。
家康の東軍7万に対し、三成の西軍は8万。
家康側がおされ気味になったとき、事態は動きます。
小早川秀秋率いる1万5000の軍が、とつぜん、三成を裏切り、家康の味方になったのです。
形勢は一気に逆転。
家康の大勝利に終わります。家康は、征夷大将軍の座をつかみ取ります。
そして、自分の本拠地である江戸に幕府を開くのです。
■ 子どものころから重ねた苦労
大勝利の秘密は、家康の手紙。
「自分に味方してくれたら領地を保証する」と、大名たちに根回しをして、有利な状況になるのを待ったのです。
家康は子どものころから苦労を重ねていました。
今の愛知県、三河の国の小さな大名の家に生まれた家康は、人質として有力な大名のもとを転々としました。
いつ殺されてもおかしくない身の上として13年を過ごします。
そして今川義元の人質となっていたとき、桶狭間(おけはざま)の戦いで義元が織田信長に討ち取られ、家康は自由の身に。
戦国大名として頭角を現していきます。
■ “待つ”家康
戦国時代、天下にいちばん先に近づいたのは、織田信長。
そのあとに豊臣秀吉が続きました。
しかし天下統一を急いだ信長は、明智光秀に裏切られ、殺されました。
秀吉は、天下を治めたあと、中国の征服を考え、朝鮮に兵を送り失敗。
病で亡くなります。
2人の人生を目の当たりにした家康。
ならば自分は、慎重にチャンスを待とう。
そう考えるようになっていきました。
■ 心配のたねは豊臣秀頼
しかし、大きな心配のたねがありました。
それは、秀吉の息子、豊臣秀頼。
西日本の大名たちへの影響力を持ち、無視できない存在でした。
豊臣家を完全にほろぼし、徳川の世にしたい家康。
秀頼をせめるきっかけが必要でした。
再び待つこと14年。
ようやくそのときが訪れます。
■ 74歳でついに天下を
家康が目をつけたのは、秀頼が新しくつくった鐘に刻まれた「国家安康 君臣豊楽」の文字。
「家康の名前を切りはなし、豊臣が楽しむ、とある。家康をのろっている」と言いがかりをつけたのです。
そして豊臣家を二度にわたってせめほろぼすと、ついに家康に刃向かう勢力はなくなりました。
このとき家康、74歳。
あせらず待つことで敵をほろぼし、このあと260年続く江戸時代の土台を築いたのです。
■ 土地を開発し元気な町をつくる
実は家康は、もともと望んで江戸に来たわけではありません。
秀吉の天下の時代に、領地としてあたえられたのです。
しかし、そこは広いだけのじめじめした土地でした。
がっかりする家臣たちを前に、家康はこれをチャンスととらえます。
大々的に開発し、元気な町をつくろうと考えたのです。
■ 江戸を開発し大都市へと変身させた
江戸時代の初め、今の東京の一部は海でした。
そこで家康は海をうめたて、土地を増やしました。
新しい土地に家臣や民を呼び寄せ、町づくりを始めると、一気に江戸は活気づきました。
家康が特に力を入れたのが、運河を開くことです。
全国からの船が行き交い、物の流通が盛んになると、江戸はさらに発展しました。
じめじめした土地から日本有数の大都市へ。
人口はどんどん増え、やがて、100万人が暮らす世界的な大都市に成長。
今の東京につながっていきました。
0 件のコメント:
コメントを投稿