大道寺政繁(1533~1590)。後北条氏の重臣で、河越城代。「河越衆」軍団を率い、武功を挙げる

大道寺政繁(1533~1590)。後北条氏の重臣で、河越城代。「河越衆」軍団を率い、武功を挙げる。<川越の先人


・1533年- 1590年8月18日

  後北条は、小田原北条、戦国北条ともいわれます。1491年ー
1590年の100年間にわたり、戦国大名として君臨します。

初代・早雲、2代氏綱、3代氏康、4代氏政、5代氏直と続きます。大道寺家は北条早雲以来の後北条氏の重臣です。
  大道寺政繁の祖父、父は、1546年の河越夜戦(かわごえ
よいくさ)で、上杉勢に勝利します。

これにより太田道灌の築城より90年続いた上杉氏の河越城支配
は終わりを告げます。

  大道寺政繁は3代氏康、4代氏政、5代氏直の3代に仕えます。
「政」の字は氏政から与えられ、政繁と名乗るようになりまし
た。

  大道寺氏は3代40年間にわたり河越地域を支配します。城代と
は、城主の補佐役、代理です。

坂戸宿を開き、坂戸発展の礎を築きました。

  大道寺政繁は、軍団「河越衆」を率い、主要な合戦で先頭に
立ち、武功を挙げました。

1582年の本能寺の変ののち、後北条の関東北方支配強化策の一
環として、河越城の城代を務めながら、松井田城(群馬県安中
市)の城主を兼帯します。信州佐久一帯を制圧します。信州侵
攻中の徳川家康との講和により、松井田城に在城します。

当時河越城と松山城(現・比企郡吉見町)は後北条の北関東攻
略の前線基地でした。

  1590年の豊臣秀吉の小田原の戦いで、大道寺政繁は松井田城
を守るも、前田利家、真田昌幸ららに攻められ降伏します。
その後豊臣方に協力します。忍城(おしじょう)攻めの道案内
をつとめます。武蔵の松山城、鉢形城、八王子城の攻略戦に加
わリます。

  しかし豊臣秀吉に、北条氏政らと同じく、開戦の責任をとが
められ、川越の常楽寺にて切腹を命じられ自害します。常楽寺
に供養塔があります。

政繁は子孫を多く残しました。山形市には、大道寺姓が多くあ
ります。

  大道寺氏の古文書が川越に少ないのは、そのころ河越城は、
単なる軍事拠点、兵隊宿舎であり、所領ではなかったからでし
た。わずかに川越の松郷(まつごう)と今成(いまなり)だけ
が大道寺領でした。
他は小田原の北条が直轄していました。大道寺氏は、軍事の専
門家で、河越では政治はおこないませんでした。

  徳川家康が豊臣秀吉に強く懇願し、大道寺政繁の子供らは家
康預かりの身となり、大道寺政繁の長男は将軍・徳川秀忠に仕
えます。

  大道寺政繁は、蓮馨寺(れんけいじ)を上尾から川越に移し
ました。蓮馨寺は、大道寺政繁の母・蓮馨尼(れんけいに)に
よって開かれたものです。

  大道寺政繁は、広済寺、見立寺(けんりゅうじ)を開基しまし
た。

大道寺政繁〔武蔵・常楽寺供養塔墓所〕 【+2】

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