商都 川越を愛した渋沢栄一
渋沢栄一は、1883年43歳で、川越人の兼子と結婚します。
渋沢栄一は、42歳の時に妻 千代に先立たれました。
千代は5人の子を生みましたが、コレラで42歳で早世しました。
後添(のちぞ)いに川越の豪商 伊藤八兵衛の娘
兼子(かねこ)をもらいうけました。
伊藤八兵衛は、川越の小ケ谷(おがや)出身で、
江戸一の大富限者(ぶげんしゃ)と称されていました。
川越出身の妻 兼子(かねこ)は、栄一の渡米に同行し、
積極的に渋沢栄一をサポートしました。
渋沢栄一団長率いる商工会議所50名の「渡米実業団」の一員として
活躍しました。
ルーズベルト大統領との会見にも立ち会いました。
渋沢栄一は川越に何回も訪れています。
1893年(明治23年)川越大火が発生します。
時の鐘を含む町域の3分の1を消失しました。
渋沢栄一は、川越大火に義援金を寄贈しています。
時の鐘の銘文には渋沢栄一の名前が刻まれています。
1912年、渋沢栄一は、越生(おごせ)、毛呂山(もろやま)、川越を回りました。
越生では講演をしました。
喜多院の復興にもたびたび協力しました。
1915年の遠忌法要では総会演説をしました。
県立川越高校の創立25周年に配られた扇子に揮毫しました。
県立川越高校の創立25周年に配られた扇子に揮毫しました。
渋沢栄一は、東京の乗合馬車屋に川越で営業することを進めました。
この馬車屋が1894年に佐久間旅館になりました。
佐久間旅館は、島崎藤村や皇族などが利用する由緒ある旅館でした。
また松山高校記念館には、1929年、渋沢90歳の来校時の自筆の書が飾られています。
また松山高校記念館には、1929年、渋沢90歳の来校時の自筆の書が飾られています。
飯能には5回来ています。
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渋沢敬三
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