なぜ、川越城は、 天守をつくらなかったのですか? #桑原政則雑記 #はてな川越 #保科正之 #文治政治 #松平信綱
なぜ、川越城は、 天守をつくらなかったのですか?
まずは江戸城の天守閣の話。
1657年「明暦の大火」で江戸城は焼けました。
1657年「明暦の大火」で江戸城は焼けました。
実力者 会津藩主・保科正之は、天守閣の再建に反対しました。
保科正之は3代 徳川家光の異母弟です。
時は、島原・天草一揆により「武断政治」から「文治政治」に変革の最中です。
天守のない江戸城こそ、平和の江戸の象徴だったのでしょう。
島原・天草一揆を仕切った松平信綱は、
保科正之に同調し、
川越城に天守をつくりませんでした。
保科正之に同調し、
川越城に天守をつくりませんでした。
それよりも
川越まつり
を奨励しました。
川越まつり
を奨励しました。
0 件のコメント:
コメントを投稿