1638年、喜多院が全焼、3代将軍・家光ただちに再建

【※】2015/6/20、NHKのブラタモリ、#9は「小江戸・川越 ~なぜ川越は小江戸と呼ばれる?~」でした。

・今はない日本橋の蔵づくりの町並みを川越は残しています。
蔵づくりが黒一色なのは、白の武家屋敷との区別のためです。

・江戸城は全焼し、遺構は東京には残っていない。
喜多院の「家光誕生の間」が、今に残る江戸城唯一の遺構です。

(・川越まつり、も)

3代将軍・家光は、喜多院が全焼した時、自分の誕生の間を江戸城から喜多院へ移すことを命じました。

家光にとって天海僧正は、大事な祖父でもありました。

日光の家光廟・大猷院(たいゆういん)は、天海僧正の慈眼堂に抱かれる位置にあります。

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1638年、天海102歳の時、川越大火により喜多院が全焼しました。

天海を崇敬していた家光は、ただちに喜多院の再建に取りかかりました。
家光は、江戸城から客殿や書院を、舟運(しゅううん)で移築しました。

家光誕生の間
「春日局(かすがのつぼね)化粧の間」
がそれです。

これらは、今に残る江戸城の唯一の遺構です。


春日局は家光の乳母で、家光を将軍に押し立てた立役者です。

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家光は建物を運搬する際に、江戸から川越までの水路を整備しました。

これをきっかけに川越はその後舟運基地として栄えることになりました。

川越の舟運をはじめたのが家光でした。

喜多院山門
喜多院の関係施設地図


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