徳川家康の神号問題。天海の権現か崇伝の明神か。

1616年4月2日、徳川家康は病床に、崇伝(すうでん)、天海、本多正純を呼び、遺言を残しました。

1、「遺骸は久能山に埋葬すること」
2、「葬儀は増上寺でおこなうこと」
3、「位牌は、出身地の三河の大樹寺に祀ること」
4、「一周忌が済んだら日光山に小さなお堂を建て勧請すること」

<*  勧請(かんじょう)とは分霊することで、遺骸を移すことではありません。>

家康の神号をめぐって神号問題が起きました。

金地院崇伝(こんちいんすうでん)は明神号を主張しました。
天海は権現号を押し通しました。

天海の言い分です。
「豊臣秀吉は豊国大明神(ほうこくだいみょうじん)である。
徳川家康も明神ならば、同格となってしまう。」

天海の言い分が通り、
1617年朝廷より徳川家康に東照大権現の神号が勅許されました。

天海は、伊勢神宮の天照大神(あまてらすおおみかみ)を意識し、東国の天照(あまてらす)という意味で東照大権現にしたのでしょう。

東照大権現とは、家康が東照という神となって仮に(=権)この世にあらわれている姿ということです。

天海は、徳川王権を固めるために、分霊ではなく、遺骸を移しました。
小さなお堂ではなく、日光東照宮を建立しました。

<* 高藤晴俊は、神号問題はなかった、としています。 >