新島八重はハンサムウーマン



新島八重×同志社女子大学
:同志社女子大学

新島八重(1845- 1932年=昭和7年、87歳没)は、会津若松の砲術家に生まれました。

戊辰戦争時には会津若松城(=鶴ケ城)30日間の籠城戦で、断髪・男装し、銃を持って戦いました。

戊辰戦争で八重は父と弟を失いました。

のちに「幕末のジャンヌダルク」とよばれました。

1871年、八重は、八重は京都府顧問となっていた実兄、覚馬を頼って上洛します。

英語を学び、洋服を着こなし、明治の新女性として行動します。
ハンサムウーマンの誕生です。

1875年、八重は兄の友人・新島襄と知り合い、婚約、翌年日本初のキリスト教式の結婚式をあげます。
襄は32歳、八重は30歳でした。

襄と八重は、世間を気にすることなく、仲良く人力車に乗ったりしました。
八重は先に乗りました。

八重は「ジョー」と呼び捨てにし、襄は「八重さん」と呼びました。
襄は八重のことを「生き方がハンサムだ」とたたえました。

1877年、現・同志社女子大学を襄、八重、米国人女性宣教師の3人で開設します。
八重は教員となり礼法や英語を教えます。

八重は、勝海舟、木戸孝允、岩倉具視、江藤新平らと面識がありました。

1890年、夫の襄が46歳の若さで急逝します。

以後は京都に女性向けの茶道教室を開いて自活します。

夫の死後は日清・日露戦争に篤志看護婦として広島、大阪に従軍し、「日本のナイチンゲール」とよばれました。

新島八重は、最後まで自由奔放に行きました。

1928年、八重が82歳のとき、勢津子妃(松平容保公の孫)と秩父宮殿下(昭和天皇の弟)が成婚しました。
会津藩、徳川幕府と皇室の和解が60年ぶりに成立しました。
八重は、 お祝いを述べに上京しました。

八重の葬儀は1932年、現・同志社女子大学にて社葬でおこなわれました。
墓碑銘は徳富蘇峰の筆によるものです。

【エピソード】

13歳のとき、八重は4斗俵(約60キロ)を肩まで4回も上げ下げしました。

八重は、白虎隊になる伊東悌次郎にも砲術の指導をしました。 

八重の弟や会津藩士が眠る金戎光明寺(こんかいこうみょうじ、左京区)には、
お江(おごう、2代・徳川秀忠の妻、徳川家光の母)の供養塔があります。

徳川秀忠は、会津松平藩の開祖、保科正之の実父です。
金戎光明寺



八重の桜、会津のページ 桑原政則