八重の桜>山本覚馬:新島八重の兄で、近代京都生みの親

山本覚馬 :(※1 )
山本覚馬(かくま、1828- 1892、64歳)は、代々続く会津藩の兵学家に生まれました。

新島八重の17歳上の兄です。
八重から生涯に渡り、敬愛されていました。

弟は鳥羽・伏見(※)の戦いで戦死します。

父は、会津戦争で鶴ヶ城に篭城し、討ち死にします。

師・山本勘助は遠祖だとの説もあります。

22歳で江戸で佐久間象山の塾に入リました。
勝海舟らと同門です。

28歳で会津に戻り藩校・日新館の蘭学所教授となりました。

京都守護職に就任した藩主・松平容保に従い上洛し、諸藩士に洋学の講義をおこないました。

1868年の鳥羽・伏見の戦では、薩摩藩に幽閉されました。

幽閉中に、失明のなか口述筆記で、建白書『管見』を藩主に上程し、小松帯刀、西郷隆盛らに敬服されます。
『管見』は22項目にわたり将来の日本のあるべき姿を論じた建白書です。

「管見」とは、管(くだ)の穴から見ること、「葦の髄から天井を覗く」ことです。

山本覚馬は、先進的に、三権分立を主張しました。
女性の学問の必要性を主張しました。

1870年、明治政府の京都府の顧問格になります。

京都府は、首都を東京に奪われたので、ちょうど欧米の事情に精通した人物を通した「都市おこし」の必要がありました。

1872年(明治5年)、『管見』に基づいた日本最初の女学校が京都に開校しました。
日本最初の小学校も中学校も、京都です。


1875年頃、新島襄と知り合い、購入していた旧薩摩藩邸の広大な敷地を学校用地として新島に譲渡、新島襄らと同志社大学を創始しました。

1879年、最初の府会議員となり、初代議長になりました。

1885年、京都商工会議所会長に就任しました。

1890年、新島襄の他界後は、同志社臨時総長となり、同志社の発展に尽くします。

山本覚馬は新島八重の理想の人で、兄・覚馬なかりせば、新島八重の人生は、会津で終わっていたでしょう。


山本覚馬ギャラリー 同志社大学

(※) 鳥羽伏見の戦い
1868年、京都の鳥羽・伏見での薩長と幕府軍(会津藩など。公武合体派)の交戦です。
1日で幕府軍が敗北しました。
戊辰戦争の発端となり、このあと薩長が江戸に攻め入ります。


(※1 )http://kyoto-brand.com/read_column.php?cid=5418


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【cf.】福島良一講演、2013/07/13、川越クラッセ、「新島八重--”女だてら”を貫いた不屈の精神」、を一部参考にしました。