孝明天皇 |
・1831年7月22日。京都 ~1867年1月30日崩御。京都。35歳
孝明天皇は、1866年急逝(きゅうせい)しました。
孝明天皇は、1866年急逝(きゅうせい)しました。
息子・のちの明治天皇はまだ14歳でした。
孝明天皇は、強烈な佐幕主義者(幕府を補佐する者)で、
幕府の力による鎖国維持を望んでいました。
幕府の力による鎖国維持を望んでいました。
政局の収拾をはかるため、妹の和宮(かずのみや)が
14代 家茂(いえもち)に降嫁させました。
14代 家茂(いえもち)に降嫁させました。
孝明天皇は、徳川慶喜、松平慶永、山内容堂らを
中心とする公武合体派を頼りにしていました。
【※】公武合体派
朝廷と、幕府・諸藩を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかるグループ
中心とする公武合体派を頼りにしていました。
【※】公武合体派
朝廷と、幕府・諸藩を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかるグループ
なかでも京都守護職・会津藩主・松平容保(かたもり)を
厚く信頼していました。
厚く信頼していました。
孝明天皇の在位は1846年~1867年の21年間です。
この間、将軍は
12代家慶(いえよし)、
13代家定(いえさだ)、
14代家茂(いえもち)、
15代慶喜(よしのぶ)
の4代にわたっています。
12代家慶(いえよし)、
13代家定(いえさだ)、
14代家茂(いえもち)、
15代慶喜(よしのぶ)
の4代にわたっています。
学問好きで、「学習院」を創設しました。
【22分】【竹田恒泰】暗殺された孝明天皇