ペリーを振り回した日本の黒船外交:林大学頭


ペリーの航路:
大西洋→ アフリカ沖→ インド洋→日本
【cf.】横浜開港資料館
1853年6月3日、アメリカの海軍提督ペリーが4隻の黒船でやって来ました。
黒船は、幕府の決まりを無視し、長崎ではなく、横須賀の浦賀沖に出現しました。
さらに江戸湾の品川沖まで進入して来て、開国を要求しました。

【cf.】幕末・日本外交は弱腰にあらず!NHK、2011/9/23

ペリーは、翌1854年1月には10隻の軍艦で来航し、開国を迫りました。

アメリカ側は466名が横浜村に上陸しました。

ペリーは恫喝します。
「条約を締結しないならば、100隻の軍艦が到着することになるぞ!」

幕府側の交渉相手は、林大学頭(はやし だいがくのかみ、林復斎)です。
林大学頭は、昌平坂学問所の塾頭でした。

ペリー  /WP
交渉初日にペリーはパンチを浴びせます。
「今日のお祝いに、将軍さまに21発、林大学頭さまに18発、さらに上陸記念に18発の祝砲をお贈りします。」

50発以上の砲声が鳴り響きました。

林大学頭は冷静に処します。
「交易はわが国の法により、固く禁じられています。」

ペリーは机を叩いて、恫喝します。
林大学頭は、ペリーの種々の論難に事実に基づき揺るぎない反論を展開します。

ペリーは林大学頭の人間力、情報力になすすべがありませんでした。
軽くいなされ、翻弄(ほんろう)されっぱなしでした。

◇                    ◆                    ◇

ペリーが来るまで、日本は太平の眠りについていたわけではありません。

1800年頃から外国船は日本に迫ってきていて、外国事情は周知の事実でした。

林大学頭家は、外交文書をつかさどっていて、海外の情勢をよく知っていました。

ペリーは、太平洋ではなく、インド洋を通ってやって来ました。
幕府は、インドネシアを握っていたオランダから、ペリー艦隊の全容を、すでにつかんでいました。

日本側の貿易拒否は、清の実情を知悉(ちしつ)していたことも関係します。

清は、イギリスと交易しましたが、イギリスから大量のアヘンがインド経由で密輸され、アヘン戦争(1840- 1842)がおこります。
清は大敗し、1842年南京条約を結ばされます。

清は、貿易開始により、アヘンが流入し、戦争になり、香港を奪われました。
清は亡国状態となります。


ペリーと林大学頭との交渉は20日間におよびました。

お互いの健闘をたたえ、ペリーは次のように結びました。

「今後、日本が外国と戦争に至ったときには、アメリカは軍艦、大砲をもって加勢します。」

ペリーは日記に記しました。
「日本人がひとたび文明世界の技能を手に入れれば、強力なライバルになるだろう。」

薩長が記す幕末史は、上のような徳川幕府の状況を記しません。
また情報戦争の大切さを認識しなかったようです。

【※】捕鯨
ペリーのアメリカは、清の他に、捕鯨基地としても、日本の港を欲したと言われています。
いまは捕鯨反対のトップに。