吉田松陰。日本を改革したスーパー先生。Yoshida Shōin。11月21日没

吉田松陰。日本を改革したスーパー先生。Yoshida Shōin。11月21日没  

・1830年9月20日。長州藩 ~ 1859年11月21日没。29歳。江戸

吉田松陰(しょういん)は、幕末の尊王論者です。
長州藩の下級武士に生まれます。

早熟で、幼児からきびしい教育を受け、
11歳のときにすでに
毛利藩主の前で講義をおこないます。

佐久間 象山(さくま しょうざん、信濃国 松代藩出身。開国論者)に学んで、
海外の事情に目を向けるようになりました。


1848年(18歳)、藩の師範となります。
1849年(19歳)、九州を遊学します。
1850年、諸国を遊学します。
1851年(21歳)、江戸で佐久間象山に学びます。
1854年(24歳)、佐久間象山の影響で海外渡航をくわだてます。
    下田でペリーの軍艦に乗り込み、密航をはかり失敗します。
1859年(29歳)、刑死


密航失敗の時の歌です。

【名言】
    < かくすれば  かくなるものと  知りながら 
やむにやまれぬ  大和魂 >


(このようなことをすれば、このようなことになることは知っていたが、
やむにやまれぬ気持から行動に踏み切った。
これが日本人の魂なのだ。)


山口県 萩に収容されます。
11人の士族が入獄していました。

吉田松陰はここで、互いに教えあう獄中教室を開きます。
牢役人までが松蔭に弟子入りします。

のちに生家での禁錮となります。

討論型の授業。左端が松蔭  :吉田松陰先生絵伝

ゆるされてから松下村塾(しょうかそんじゅく)を開いて、
一人ひとりに合った個別授業、
珍しい討論形式の授業をおこないます。

授業は、上下ではなく、横の関係でおこなわれました。

8畳と10畳のちっぽけなこの塾で吉田松陰が教えたのは2年弱です。
24時間休みなしの熱血塾でした。

松下村塾は、
  高杉晋作(倒幕派を牽引)、
  伊藤博文(総理大臣)、
  山県有朋(ありとも。総理大臣)、
  久坂玄瑞(くさかげんずい)、

などの明治維新の立役者を輩出します。


このちっぽけな塾から、
総理大臣2名、大臣4名、県知事4名を出しています。



吉田松陰は、
大老・井伊直弼(なおすけ)による安政の大獄で、
反幕行為のかどで、江戸に搬送されます。
江戸で斬首(ざんしゅ)されます。


松陰の思想は、思想と実践の一致です。
真心をもって事にあたれば、道は開けるものだという信念です。

【※】
吉田松陰、辞世の句

<身はたとひ  武蔵の野辺(のべ)に
朽(く)ちぬとも
とどめおかまし大和魂>


(この身はたとえ武蔵の辺境に朽ち果てるとしても、
とどめて置きたいものだ、私の大和魂は。)



塾生に、
「常に情報を収集し、将来の判断材料にせよ」と説きました。
これが松陰の「飛耳長目
(ひじちょうもく)」です。


吉田松陰の伝記を世界で初めて記したのは、
R.L.スティーブンスンです。
『ジキル博士とハイド氏』、『宝島』の作者です。
        YOSHIDA-TORAJIRO


松蔭神社 世田谷区

【※】安政の大獄  
1858-1859年、井伊直弼が尊王攘夷運動にくわえたきびしい弾圧事件です。
100名以上の公家、大名、志士が罰せられます。