平治(へいじ)の乱で源氏をおさえて、
太政(だいじょう)大臣に登りつめます。
1156年の保元(ほうげん)の乱は、
平治の乱のほぼ20年後、
源頼朝が1180年伊豆で旗揚げします。
富士川の戦いでは、平家軍を戦わずして敗走させます。
各地で源氏が挙兵するさなかに、
平清盛は熱病に感染しなくなります。
遺言は「伊豆の流人(るにん)、頼朝の首をわが墓の前におくべし」です。
1185年、平家は壇ノ浦でほろびます。
【ショート】
平清盛
太政(だいじょう)大臣に登りつめます。
1156年の保元(ほうげん)の乱は、
後白河(ごしらかわ)天皇
と
崇徳(すとく)上皇
との争いです。
両グループとも、平氏、源氏の武士に加勢をたのみました。
【※】受験 1156年 保元の乱 ◇ いいころ保元、後白河
*後白河が崇徳上皇をくだす。平清盛、源義朝の進出のきっかけに。
後白河天皇方が勝利します。
後白河天皇についたのは、平清盛、源義朝です。
この乱により、公家の世から武家の世が来ることになります。
1159年の平治の乱は、平清盛と源義朝との京都でのたたかいです。
平清盛が勝ち、
両グループとも、平氏、源氏の武士に加勢をたのみました。
【※】受験 1156年 保元の乱 ◇ いいころ保元、後白河
*後白河が崇徳上皇をくだす。平清盛、源義朝の進出のきっかけに。
後白河天皇方が勝利します。
後白河天皇についたのは、平清盛、源義朝です。
この乱により、公家の世から武家の世が来ることになります。
1159年の平治の乱は、平清盛と源義朝との京都でのたたかいです。
平清盛が勝ち、
源義朝は殺され、
息子の頼朝は伊豆へ流されました。
平清盛は、頼朝を助命しました。
【※】受験 1159年 平治の乱 ◇ いちいちご苦労、平治で、清盛
清盛は、のちに後白河上皇と対立し、院政をやめさせました。
【※】受験 1159年 平治の乱 ◇ いちいちご苦労、平治で、清盛
清盛は、のちに後白河上皇と対立し、院政をやめさせました。
清盛は思うがままの政治をおこない、
「平家にあらずんば、人にあらず」といわれる
平氏一色の世の中をつくります。
1168年、満50歳の時、熱病で生死の境をさまよい、出家します。
厳島(いつくしま)神社を造営します。
清盛は、西国を基盤に、
「平家にあらずんば、人にあらず」といわれる
平氏一色の世の中をつくります。
1168年、満50歳の時、熱病で生死の境をさまよい、出家します。
厳島(いつくしま)神社を造営します。
清盛は、西国を基盤に、
対宋貿易に積極的にとりくみます。
茶、陶磁器、生薬などを輸入します。
宋との貿易のもとでになったのは、奥州でとれるようになった金です。
1171年、平清盛は、娘を、高倉天皇の后にしました。
高倉天皇は、清盛のあやつり人形です。
7歳で即位し、20歳で退位し、翌年なくなりました。
1180年、娘の子・安徳天皇を即位させました。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
茶、陶磁器、生薬などを輸入します。
宋との貿易のもとでになったのは、奥州でとれるようになった金です。
1171年、平清盛は、娘を、高倉天皇の后にしました。
高倉天皇は、清盛のあやつり人形です。
7歳で即位し、20歳で退位し、翌年なくなりました。
1180年、娘の子・安徳天皇を即位させました。
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平治の乱のほぼ20年後、
源頼朝が1180年伊豆で旗揚げします。
富士川の戦いでは、平家軍を戦わずして敗走させます。
各地で源氏が挙兵するさなかに、
平清盛は熱病に感染しなくなります。
遺言は「伊豆の流人(るにん)、頼朝の首をわが墓の前におくべし」です。
1185年、平家は壇ノ浦でほろびます。
【ショート】
平清盛
平清盛
平清盛 武士の世の中へ NHK
平清盛 武士の世の中へ NHK
* * *
・ 平清盛と西行(さいぎょう。歌人)は同年の1118年生まれです。
・ 平氏の政権はなぜ短命だった?
経済力はもっていましたが、武士が世の中を動かすことがわからず、
貴族政治を続けたからです。
平氏の政権は20年足らずで終わりますが、
源氏の政権は100年以上も続きます。
源氏の政権は、公家の京都から都を鎌倉に移します。
政権の基盤を、公家ではなく、武士に置きます。
* * *
★ 平氏も源氏も祖先は皇族
平氏は、祖先は皇族です。
桓武(かんむ)天皇の血を引く桓武平氏です。
桓武天皇の時代に、臣籍降下(しんせきこうか)したので桓武平氏とよばれます。
臣籍降下は、財政の負担をへらすために、皇族の数を減らす策でした。
川越の河越重頼も桓武平氏の傍流・秩父平氏の一族です。
河越重頼
源氏も、祖先は皇族です。清和源氏が有力です。
皇族は、姓をもっていません。臣籍降下して姓を持つようになります。
* * *
観光スポット
・京都
・神戸: 都を移そうとしたところです。
・山口市、壇ノ浦: 源平合戦
・広島県、宮島の厳島神社:平清盛が造営
#平清盛 #武士と貴族の頂点に立つ #神戸港で日宋貿易 #貨幣経済 #厳島神社 #平治(へいじ)の乱 #太政(だいじょう)大臣 #後白河天皇、平清盛、源義朝 #保元の乱で公家の世から武家の世に # # # # # #By 桑原政則
・ 平清盛と西行(さいぎょう。歌人)は同年の1118年生まれです。
・ 平氏の政権はなぜ短命だった?
経済力はもっていましたが、武士が世の中を動かすことがわからず、
貴族政治を続けたからです。
平氏の政権は20年足らずで終わりますが、
源氏の政権は100年以上も続きます。
源氏の政権は、公家の京都から都を鎌倉に移します。
政権の基盤を、公家ではなく、武士に置きます。
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★ 平氏も源氏も祖先は皇族
平氏は、祖先は皇族です。
桓武(かんむ)天皇の血を引く桓武平氏です。
桓武天皇の時代に、臣籍降下(しんせきこうか)したので桓武平氏とよばれます。
臣籍降下は、財政の負担をへらすために、皇族の数を減らす策でした。
川越の河越重頼も桓武平氏の傍流・秩父平氏の一族です。
河越重頼
源氏も、祖先は皇族です。清和源氏が有力です。
皇族は、姓をもっていません。臣籍降下して姓を持つようになります。
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観光スポット
・京都
・神戸: 都を移そうとしたところです。
・山口市、壇ノ浦: 源平合戦
・広島県、宮島の厳島神社:平清盛が造営
#平清盛 #武士と貴族の頂点に立つ #神戸港で日宋貿易 #貨幣経済 #厳島神社 #平治(へいじ)の乱 #太政(だいじょう)大臣 #後白河天皇、平清盛、源義朝 #保元の乱で公家の世から武家の世に # # # # # #By 桑原政則