松本清張『黒い空』。「河越夜戦」が舞台。#1





松本清張『黒い空』は、「河越夜戦」が舞台の大型長編推理小説です。
関東を支配する3勢力に、後北条氏が挑み関東を制覇するための物語です。

1988年に刊行され、テレビドラマ化もされています。
イタリア語、中国語に翻訳されています。

以下本文を、抜粋編集します。
(本文引用は川越雑記帳に負います。)




東明寺、河越夜戦跡 画像

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松本清張『黒い空』

(本文)

 埼玉県川越市。――旧市街は新河岸川にとりまかれている。
正保のころ川越城主の松平伊豆守信綱が荒川の支流内川を改修して川越(昔の名は「河越」)と江戸の舟便をひらいた。
入間川はそれより三キロ先で西から北東へ湾曲している。 

 新河岸川が屈折した北端に東明寺(とうみょうじ)橋が架かっている。
旧市街の北はずれでもある。
橋を渡る手前に東明寺という時宗の小さな寺がある。
志多町(したまち)という閑静な通りの突きあたりでもある。 

 門内に入ると、せまい境内に「川越夜戦之碑」と石の記念碑が立っている。
ほんらいなら、「河越夜戦」としなければなるまい。
正面の本堂は四注造りの屋根に破風を前に付けた簡素なもの。
本堂の左側には裏手の墓地へつづく小門が見えた。 

 いましもこの広くもない境内に二十四、五人の中年男女が、初老の男を中心に半円形に取り巻いて立っていた。中心の男性は白髪まじりの髪が耳をかくすほど長いが、背は低く、身体が肥り気味だある。五月の陽光を受けて汗ばんでいるが、もともと脂性の人間らしく、話をしながらしきりとハンカチを赤ら顔に当てている。聞き手を満遍なく見渡し、微笑を絶やさない。
 参会者の男女はみなメモ帖を持っている。どこかの俳句結社の吟行かとも思われたが、男性よりも婦人のほうが圧倒的に数が多い。まん中に立つ小肥りの人も俳句の宗匠でなさそうだ。しゃべっている内容も歴史の話である。
 これは当節を風靡しているカルチュア・センターとかカルチュア・スクーリングといった教養を深めるグループが、レクリエーションを兼ねた歴史現地講演だと知れた。すなわち講師は、どこかの大学の文学部に席をおく教師にちがいない。

 「この東明寺は、遊行上人(=一遍上人)の開基ということであります」
 講師は不透明な声で云っている。
 「その時宗開祖の一遍の開基になる東明寺が河越の夜戦で兵火にかかっていらい、往時の面影もないのは、さきほどわたしたちが参観してまいりました東照宮もある喜多院の復興ばかりに徳川幕府が力を注いだのと皮肉な対照であります」
 参会者たちは手帖にボールペンを走らせる。

「さて、今からざっと四百四十数年前、1546年4月20日(天文十五年四月二十日)の夜、関東管領の両上杉家と古河公方の連合軍八万の兵と、片や小田原の北条氏康の軍勢八千とが戦った世に名高い河越の夜戦、それがこの東明寺付近で行われたのであります。したがって東明寺合戦とも申します。……おや、あそこの庫裡からお坊さんが出てこられました。お住職ではなさそうですが、ちょいと聞いてみましょう」

 本堂前の横、石敷きの参道に沿って、庫裡があり、その竹垣の中から白い着物の若い僧が竹箒を手にして現れた。講師はつと坊さんのほうへ進み軽く頭をさげた。
 「少々おうかがいいたしますが」
 二十五、六歳ぐらいの僧は竹箒を立てて、質問者と背後の中年の男女群とを半々に見ていた。
 「ここは河越の夜戦の古戦場跡だそうですが、両上杉連合軍、それと北条氏康軍勢の戦死者の墳墓、つまり五輪の塔といったものが、このお寺の墓地にございますか」
 「ありません。この共同墓地にあるのは、みな新しいお墓ばかりです」
 「そうですか、河越の夜戦のことで、調べにくる人がありますか」
 「めったにありませんが、一年に一回か二回ぐらいは見えるようです」
 講師は礼をいって元の位置に戻ったが、それほど失望した顔ではなかった。さあ、みなさん、それでは場所を移して新河岸川のほうへ、と云った。
 門前には東京ナンバーの貸し切りバスが駐まっている。バスは寺の前を左に折れ、川土堤の道を上って東明寺橋を渡った。まっすぐ行けば、入間川へ突きあたるまでの山田という新開地を通る。バスはそっちへ行かないで、講師の指示で土提道を右へ曲がってとまった。荒れはてた新河岸川には落莫の東明寺の裏側が投影している。土堤の伸びた草のあいだに黄色いたんぽぽが咲いている。頽廃の漂う春である。
 この道はトラックも通らず、乗用車の通行もあまりない。バスを道端に寄せて、二十数名の全員は車内で講師のレクチュアを聞くことにした。
 「みなさん、これから河越夜戦のお話を現地に立ってお話しすることにします」
 講師はにこにこして云った。

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【※】

関東を支配する3勢力
◆ 山内(やまのうち)・上杉憲政(のりまさ): 関東管領、管領は将軍の補佐役。砂久保に陣。滅亡後は上杉謙信に名跡が。
◆ 扇谷(おおぎやつ)・上杉朝定(ともさだ):関東管領。入間川よりの川島に陣。
◆ 古河公方(くぼう)・足利晴氏(はるうじ):茨城県古河、公方は関東の将軍。伊佐沼に陣。
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 「さきほど申しましたように、ときは天文十五年、すなわち一五四六年四月のこと、関東管領の山内(やまのうち)・上杉憲政と、扇谷(おおぎやつ)・上杉朝定の両軍と、それに古河公方の足利晴氏の兵と、合わせて八万の兵が、河越城を守護する北条方の勇将北条綱成(つなしげ)をその前から半年にわたって囲みました。
その綱成を救うべく小田原からかけつけた北条氏康の手兵八千とが戦った合戦であります

 マイクを手に持って話しかけるが、生まれつきの濁み声なので声が割れがちである。

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【※】
川越城を守る北条綱成(つなしげ)は、武田信玄を苦しめた今川の家臣の子です。2代氏綱が気に入り、娘をめあわせて北条一門に迎え入れました。

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アジサイ寺の明月院。北鎌倉駅から。  2014/10


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 「その前に関東管領の上杉氏のことを申しあげないと、話が通じにくいかもしれませんね
あのう、みなさんは北鎌倉の明月院をご存じでいらっしゃいますでしょう?」

 「知っています。アジサイ寺のことでしょう。
わたくしは一昨年と昨年の六月のころに二回つづけて行きました。
参道の石段の両側のアジサイが見事でした」
 眼鏡をかけて面長な顔の婦人が講師を仰いで云った。
 「わたくしも主人と四年前に行きました」
 六十年配の未亡人らしいのが云った。

 「そうですね。昔から閑寂な場所にある由緒あるお寺です。
あのへんの山地一帯が山内上杉管領の屋敷跡なのです。

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アジサイ寺の明月院と浄妙寺
明月院
浄妙寺

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それに対して扇谷上杉管領の屋敷跡は南へ三キロぐらいのところにあって、横須賀線の東側、浄明寺のあたりです」
 「管領というのは何ですか」
 年の若い女性がきいた。

 「管領というのは足利幕府の職名で、将軍の補佐役です。
京都の室町幕府にあったのが京都の管領職、これは斯波、細川、畠山の三家が交替でつとめました。
鎌倉府のほうにいて将軍一族の公方(くぼう)を補佐した管領職が上杉家です」

 「京都幕府の管領は三家があったのに、鎌倉府の管領は上杉家だけですか」
 「もともとはそうだったのです。だいたい足利幕府は源頼朝や北条執権のように鎌倉に幕府を置かなければならないのですが、おりからの南北朝の騒乱のため、尊氏じしんが京都から身動きできず、しかたなく京都の室町に幕府をひらいたのです。
そのかわり鎌倉には尊氏の三男の基氏を主として駐在させました。
これが初代鎌倉公方です。

以来、鎌倉公方の下で世襲的に管領となったのが上杉家で、それは上杉頼重という人の娘清子が足利尊氏・直義兄弟の生母だったためです」

 白いマイカーが横を徐行しながら来る。駐まったバスから聞こえるマイクの声に乗客が窓からのぞき、こっちのバスの風変わりな乗客に眼をまるくして通る。

 「その上杉家が頼重の孫の代になって四家に分かれたんです。

    扇谷(おおぎやつ)上杉、
    詫間(たくま)上杉、
    犬懸(いぬがけ)上杉、
    そして山内(やまのうち)上杉です。

上杉家も三代も四代もとなると血縁がだんだんうすくなり、独立し、権力争いをして、たがいに仲が悪くなる。それにですな、鎌倉の地形がお互いをばらばらにさせるようにできています。
 「というと?」

 「鎌倉は谷をヤツといいますね。
鎌倉十六谷といわれますが、ほんとうは谷の数はもっと多いようです。
鎌倉は、丘と谷と、わずかな平地からできているのです。
谷と谷の間は丘陵でさえぎられ、その稜線は剃刀の刃のように鋭いのです。

それは地質が角礫凝灰岩というもので、やわらかいため両側から浸食を受けているからです。当時の鎌倉の交通路といえば、山の間を削った切り通しだけでした。

上杉憲藤という人は犬懸ヶ谷に管領屋敷を構え、朝定は扇ヶ谷に、憲顕は山内にとそれぞれ管領屋敷を構えました。
これは管領の官邸です。
詫間はどこのあたるかわからないが、これも谷にあったにちがいない。
詫間は早く衰弱してしまい、犬懸上杉家は三代目の禅秀というのが反逆のために罪を得て家が絶えました。

のこるは山内上杉と扇谷上杉の管領ニ家だけとなりました。
二家が管領職を交替で執行するというのがタテマエですが、当然に両家は明けても暮れても激しい権力争い。互いに憎しみ合い、いがみ合い、なんとかして対手を負かそうと秘術のかぎりを尽くすことになるわけです。

両上杉とも分国は関東平野です。分国というのは領国のことですが、この分国の争奪を互いにやる。
扇谷上杉の根拠地はこの武蔵にある城です。
山内上杉の根拠地は上野にある城です。

双方が鎌倉に居たのは鎌倉府の管領職として勤務していたからです。
けれども、かんじんの主人はいません。
関東公方足利成氏のとき両上杉を敵にまわして下総古河に逃れ、以後その子孫はその土地にいたので古河公方というのですが、そういうわけで鎌倉には主がいなくなった。
だから、よけいに両上杉の間の争いが激しいのです」 

 婦人会員のさし出す缶ジュースを講師は、や、どうも、とぐっと飲んだ。
 「山内にある管領の官邸も、扇ヶ谷にある官邸もさきほどお話ししたようにどちらも丘陵麓の谷にあります。その間は、旧道の巨福呂坂よりも亀ヶ谷坂のほうが短距離です。あそこは横須賀線のトンネルがあるように高い丘陵地帯です。亀ヶ谷坂にしても巨福呂坂にしても切り通しを閉められたら交通が遮断され、山内管領屋敷も扇ヶ谷管領屋敷もそのまま要塞化してくる。両者の間が風雲急を告げるとなると、双方の管領屋敷にそれぞれ与党が馳せ参じ、白昼に武闘をはじめてはばからないありさま。鎌倉の都は、これがために荒廃してしまいます

 講師は、ひと息つく。
 「両者の対立はもちろん鎌倉だけではありません。
だいたい関東公方の直轄地は伊豆、相模、武蔵。それに分国が甲斐、信濃、越後などにわたっています。とくに広い平野の武蔵は両上杉家で占拠を争うことになる。

扇谷上杉持朝は執事太田道灌に河越城の修復と江戸城の修復を命じて防衛線をかため、山内上杉家に対抗した。

けれども太田道灌の名声を妬んだ持朝の曾孫定正は山内上杉顕定の中傷にひっかかって道灌を自邸に招き、道灌が風呂に入ったところを殺します

道灌は絶命する前に、ご当家のご運もこれまで、と叫んだ。
つまり、わたしを殺したら扇谷上杉家の滅亡だというのです。
はたしてそのとおりになりました。

その邸はいまの神奈川県伊勢原市の大山の麓にあったといいます。
そのため扇谷上杉の勢力が弱まりました。
両方の小競り合いはそのごもつづきます」 
 
「以下次号」


【※】

後北条のページ

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